一輪の椿の花を秋月に

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新納三郎宛

――三人の息子へ――

 秋月といっても、その名を知る人はほとんどいないにちがいない。私の生まれ故郷――福岡県朝倉郡秋月町は、九州最大の筑後川の支流小石原川の、そのまた支流野鳥川(別稱秋月川)が削った小盆地に抱かれる山深い廃邑で、明治維新までは黒田支藩五万石の城下町だった。
 秋月の名が、まさに消えなんとする近世史に最後に登場したのは、明治九年十月に起こった秋月の乱によってである。旧藩士の半分に近い二百五十余人が総大将今村百八郎らに率いられて、東京の新政府に反旗をひるがえした。私の父方の曾祖父武田勝右衛門も、この反乱軍に加わっている。が、乱は数日にして鎮圧され、今村らは斬られ、私の曾祖父は自殺した。ほとんど同じ頃、互いに呼応して熊本では神風連が、萩では前原党が決起したが、これも一両日のうちに鎮圧された。西郷の鹿児島挙兵は、その三カ月後のことである。
 昭和の高度成長は、いわゆる過疎地の問題を全国的に生み出したが、秋月は、維新以来現在に至るまで、一貫して過疎の道をたどりつづけた町である。ツゲの原生林で知られる古処山を背に、三方を山に囲まれた孤絶的な要害という地勢のため、高度成長どころか明治の〝文明開化〟からさえとり残された。
 維新までは、南一里半の福岡藩領の商人町甘木と比肩されつつ「甘木千軒、秋月千軒」といわれたらしいが、維新このかた人は四散し、武家屋敷の大半も石垣囲いの田畑となり、十文字にのびた坂の往還沿いとそのわずかな裏側に、わびしげな町並がただひっそり連なるのみである。人口、二千足らず……。むろん汽車もなければ電車もなく、甘木から上ってくるバス便があるだけで、財政不如意のせいか、今では町そのものが甘木市に併合されてしまった。
 いくら財政不如意とはいえプライドを捨て、なぜ甘木との併合の道を選んだのだろう。秋月周辺の同じ郡下の村々――上秋月、安川、小石原(北部)と統合して、なぜ観光立町その他による独立自尊の道を考えなかったのだろう。〝時間〟との近代化流の闘いに敗れただけで、秋月は、それほど足早に消え急ぎたいのか。かくいう私の生家も跡を継ぐ者がなく、母屋は とうに消え果て、残った離れも朽ちかけている。
 全国に旧城下町は数多いが、秋月ほどみごとなまでに〝時間〟が停止した町、というか死者と生者の境界が分かちがたく入り混っているような雰囲気を漂わせる町も、そう多くはないだろう。崩れかけた土塀の蔭から、島田髷の娘がひょっこりあらわれても、すこしも不自然ではない町のたたずまいは、萩や津和野と変わらない。
 けれども、新政府に半ば強いられた秋月の乱の血の犠牲は報われることがなく、鎮撫されることすらなくて、一世紀余を深まる過疎の中に打ち捨てられてきた運命への怨念の気配が、風化につぐ風化で自然に還りつつあるかにみえる廃邑のそこかしこに、また、文明の穢れを知らぬ山の緑や川の瀬音にも、かえってくっきりと浮かび上がっているような、そういう雰囲気なのである。
 町の東側に位置する秋月城跡、というよりは舘跡には黒門や長屋門、カズラの這う石垣、苔むした石段、濠などが残っている。濠端に沿う通りは今は桜の名所だが、昔は杉並木で馬術の稽古も行われ、杉の馬場と呼ばれていた。町の裏手を縫う鄙びた小路は、いずれも水気を含んだ白い砂道で、踏んだ感触がとても柔らかい。大路小路の両側には、そのまま掌ですくって飲めそうなせせらぎが、かすかな音を立てて流れている。
 戦後だいぶ経ってからも、私の今は亡い祖母や伯母、叔父たちは、波のきらめきに小貝が揺れ、さわ蟹が砂地を這う家の前の渓流で歯を磨き、顔を洗い、食器をゆすいでいた。裏の井戸がやや不便だったせいもあるが、それほど水は清らかだったし、いまも清らかである。川を汚さないというモラルも、ごく自然にだれもが身につけていた。食器洗いや洗濯も含めて、それぞれの時間帯が不文律として定まっていた。
 秋月には、どこの旧城下町もそうであるように、寺が多い。私の生家のある石原、鳴渡界隈は〝寺町〟のごとくだ。その一つ――曹洞宗長生寺の納骨堂で、私の曾祖父は同胞たちとともに眠っている。戦い敗れて政府軍に投降した曾祖父は、福岡への押送の途上、博多に近い板付で自殺したのだが、遺骸は何日も野ざらしになっていたという。見せしめのため、そうされたのかも知れない。大黒柱に死なれた家族は、一家離散の羽目となった。孫や曾孫の代まで貧苦はつづき、末の叔母を除き孫の代でも中等教育さえだれも受けられなかった。
 秋月にはまた、椿が多い。山の緑、道の白砂、せせらぎの音と光りに縁どられたこの廃邑に、椿の花はよく映える。それにしても散るというよりは、首がもげるようにして落ちる椿の花を不吉とした士族の町に、どうしてこんなに椿が多いのだろう。
 秋月の東一里半、小石原川が刻む上秋月の江川渓谷にある栗河内の陋屋で、故郷をめざして敗走してきた秋月党のうち、リーダー格の宮崎車之助、哲之助兄弟ら七人は切腹して果てた。一番若い哲之助は六人を介錯したあと、ただ一人腹を切り、さらに 自らの首を刃に打ちつけ、喉の皮一枚を残して自刎したという。時に、数えで二十五歳。
 郷土史家の採取に成る当時の農民の証言によれば、七人は近くの農家からよせ集めた濁酒を酌みかわし、今生の別れのささやかな宴を張っている。やがて数番の謡曲が聞こえ、その声がやむと、ゴトン、ゴトンと何かが床に落ちる重たい音がひびいたあと、それきり物音も絶えて秋の夜の静寂が戻ってきたという。哲之助の兄、そして車之助の弟にあたる今村百八郎は、手勢を率いてなおも戦いつづけたが、結局捕えられ、こちらは福岡の桝木屋の浜で、参謀格の益田静方とともに刑吏に首を刎ねられた。
 乱後、彼らの遺骸は遺族の手で仮埋葬地から掘り起こされ、あるいは福岡その他から荷馬車で故郷に運ばれた。遺族は、彼らを秋月の清らかな水で洗い浄め、線香をもうもうと焚いて死臭を防ぎつつ、柄杓の柄を差して首と胴をつなぎ、その上を包帯でぐるぐる巻きにして生前の姿に戻し、埋葬した。宮崎、今村三兄弟の墓は、現在も長生寺の墓所に並んでいる。
 下級士族である武田家の墓地は、町の西側の白石の山腹(古賀ん谷)にあったが、昭和四十年前後の高度成長期に長生寺に新設の納骨堂へ改葬された。秋月の乱では、秋月党だけで三十六人の死者が出た。これは島原の乱に出陣した折の死者三十五人とほぼ同数だが、小藩にとってはかなりの犠牲者なのだろう。
 それから、百年余の歳月がたつ。栗河内のすぐ下流から、いまでは江川ダムが湖水に緑蔭を映しながら広がっている。秋月の乱は、戦前は反政府という理由から、戦後は不平士族の反動という評価から、深い忘却の湖底に沈められたままである。そして、士族の大半がその妻女ばかりでなく、自らも手内職や畑仕事に励まなければ生活できないほど貧しかったという事実には、だれも目を向けようとしない。たしかに軽挙妄動、短慮暴発の謗りは免れないにせよ、その貧しい生活すら満足な補償もなしに奪われようとした時、彼らは起ち上がったのだった。
 軍法会議ともいうべき福岡臨時裁判所で、「除族の上斬罪」を申し渡された今村は、数えの三十五歳という若さで世を去ったが、この今村の墓に、お高祖頭巾姿の若い女性がしばしば詣でていたという。彼女は今村の愛人幾知で、甘木の三味線屋の娘である。甘木の花とうたわれた美女だったらしく、刑死した秋月党の御大将とのロマンスは、わらべ里唄となって、いつまでも歌いつがれた。

  甘木四日町 三味線屋
  お幾知ちゃんは 思案顔
  士族今村 首があったら
  よござんしょ

  お幾知 可愛いや
  花桶さげて 墓参り
  士族今村 さぞやあの世で
  うれしかろ

  今村は出陣の折、幾知を呼んで形見に無銘の業物を与えた。やがて幾知の生家が傾き、形見の短刀は近所の質屋の手に渡った。幾知は法務官石田某と結婚して故郷を去ったが、愛人の形見さえ手離さなければならないほど落ちぶれたのか、それとも新しい愛人の法務官に義理立てしたのか、いまはいずれとも判じがたい。
 さらにそもそも、今村を殺した官憲側と同類のごとき法務官と、なぜ結婚する気になったのかも、不明である。しかし、わらべ里唄の「思案顔」という言葉に、女心の機微も多少は推量されていよう。形見の短刀は、時代の流れとともに人から人の手に移って、最後は太平洋戦争に出征する軍人の守護刀、つまり今村の霊魂がこもった破邪の剣として戦地へ持ち出されたというが、その後の消息は知れずじまいである。
 わが国には〝小京都〟を自任する町が少なくない。秋月はその中でも、もっとも小さな、かつもっともさびれたモデルだろう。が、秋月美人の伝統だけは、他のいかなる 〝小京都〟にもひけをとらない。因みに秋月という地名は、鎌倉時代から戦国時代までこの地で活躍した大守秋月氏に由来する。戦乱にも明け暮れた秋月氏の最盛期は公稱三十六万石に及び、秋月文化が栄えたというが、秋月美人は、じつはこの秋月氏以来の伝統なのである。
 しかし、薩摩島津氏に味方した秋月氏は秀吉に追われて、わずか三万石の日向高鍋に去り、代わって黒田氏が入国してくるわけだが、 秋月に最初に入った黒田惣右衛門は、福岡藩祖黒田長政の叔父でクリスチャンだったせいもあり、秋月氏末期から慶長期にかけての秋月文化には、私の生家に近い鳴渡の切支丹橋、教会堂跡、また切支丹灯籠などの遺物にも見られるように、南蛮文化の光りも当たっていた。江戸初期の禁教直前の秋月領だけで、二千人ものキリスト教信者がいたといわれる。
 鎖国後も秋月黒田藩がしばしば長崎警固の任につき、また文化七年(一八一〇年)に長崎から石工を呼んで、長崎のそれと同じ名と構造を持つ石材アーチ式の眼鏡橋を野鳥川に架けたのも、秋月の文化伝統と無縁ではあるまい。その時以来、眼鏡橋は古処山とともに秋月のシンボルとなっている。
 先の秋月氏が生んだ第一の傑物といえば、だれしも上杉鷹山を挙げるだろう。高鍋藩の六代目秋月種美の次男治憲、すなわち後の鷹山は九歳にして上杉家の養子となり、明和四年(一七六七年)十七歳で米沢藩主となるや、終生の師である儒者細井平洲らにも援けられて、十余年に及ぶあの「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の大改革を成就した。その母は秋月黒田家の娘春姫だから、鷹山にとって秋月は父祖の地であるばかりでなく、母の実家でもあったことになる。 なお、鷹山の甥の秋月幸三郎は高鍋藩から秋月黒田家へ養子に入り、第八代黒田長舒となった。
 秋月氏が古処山に山城を築いた時代から数えても、八百年近い歴史を持つ秋月にとって、明治維新は文字通りの晩鐘であり、秋月の乱は文字通りの挽歌であった。町の西北郊石原にある私の生家の前を通って秋月街道を西へ進むと、道はすぐ山に入り、谷間をつずら折りに蛇行しながら高みへと登って行く。道端には苔むした小さな墓地や棚田、棚畑が点々とつらなり、木洩れ陽を受けた急流が時折キラリと刃のように輝くのである。
 振り返るたび、秋月の町は山蔭に見えなくなったり、不意にあらわれたりしながら、下方へ下方へと沈んで遠ざかる。そして、町の姿を最後に見下ろせる坂を、涙坂という。参勤交替などで江戸へ行く者は、ここで涙を流し、江戸から帰る者も、ここで涙を流した。
 秋月党はなぜかこの涙坂を避け、南の急峻な間道である甘水谷を登って進軍した。裏切られるとも知らずに豊津党(旧小笠原藩)と合力すべく豊前をめざし、さらには同時に敗北するとも知らずに長州の前原党と海路合流して、西郷の決起を促しつつ東京への先陣を駈けるため……。しかし結局、秋月党は豊津近郊の錦原で、若き日の少佐乃木希典もいたという新式装備の政府軍に完敗し、故郷への敗走をつづける羽目となる。
 故郷秋月はすでに官憲に占領され、住民たちは郊外へ避難するなど動乱の中にあった。かくして今村百八郎は、ついにその妻子にも愛人幾知にも、生きて再びまみえることがなく、私の曾祖父も数えの四十七という分別盛りでありながら、若い妻と三人のおさな子を再び見ることがなかった。
 同じ時代、同じ理由で乱を起こしながら、佐賀や萩や鹿児島には、むしろ維新の勝者の匂いのほうが色濃く漂い、熊本でも五十四万石の旧大藩の繁栄が現在までつづいているが、ひとり秋月のみ時代の手によって完膚なきまでに滅ぼされた。
「お前んひいじい様はな、サムライらしゅう立派に腹ば切って死んなさった」
 祖母は子どもの頃の私に、彼女が幼時見聞したという秋月の乱の話を、そういう切り出し文句で始めたものである。高手小手に縛られて、いや少なくとも両手首を厳重に縛られて押送される曾祖父に、切腹の機会などあるはずがないことは自明だが、おそらくは何か突発的な原因から舌を噛み切っての憐れな自殺か、あるいは押送途上での官憲による密殺が、子や孫の間で語りつがれているうちに、武士らしい「切腹」に美化されたのだろう。
 覚悟の自殺ならば投降前にいさぎよく実行したはずだし、そうではなくて、他の多くの秋月党士と同様、妻子など家族と生きのびる道を選んだからこそ、投降して福岡の裁判所へ押送されていたはずではないか。だから押送途上での、下っ端党士の曾祖父の自殺が何とも解せないし、納得しがたいのである。それに遺骸は、なぜ何日も野ざらしにされたのだろう。密殺され野ざらしにされるほど、曾祖父は何らかの言動で官憲の怒りを買ったのか。
 しかし、他方投降したという確かな記録も残っていないのである。だから実は何かの目算があってか、曾祖父はただひたすら西へ(たぶん博多に向かって)逃れ、板付までたどり着いたところで、もはや逃げきれぬと観念して首をくくったのかも知れぬ。記録によれば、曾祖父の死に方のみ戦死や敗走途上の自害、斬殺、切腹、自刃ではなく「自殺」とある。つまり、いずれにせよ刀による武士らしい死に方をしなかったのだ。
 私は、曾祖父の死の真相について刊行物でいろいろ調べたし、福岡や甘木の裁判所、警察などに何度も文書で問い合わせたが、あまり古いことなので資料が残っていない、という返事であった。歴史を長いスパンで見る癖のついた私には、明治の初期などさして古いことにも思えないが、頭の片隅から私を押しとどめる声――「死者を暴くな。ただ静かに眠らせよ」との声が聞こえてくるのも、また事実である。
 そう、じつは切腹であろうと自殺であろうと密殺であろうと、まさに秋月はだれもかれもが、ある意味で「腹ば切って」死に絶えることによって、逆に不動の生を生きつづけているような、いわば鷹山とは正反対の無明のなつかしさをたたえた町なのである。

   参考資料 田尻八郎『秋月党遺聞』郷土文学社

          三浦末雄『物語秋月史』秋月郷土舘

 筆者注――本篇は「経済と文化」昭和55年1月号掲載の同題のエッセイを、史実誤認その他の不備不足を改めて文芸誌「流星群13号」に再掲したものです。