ジャスミン茶の匂い

── 四十路半ば・春・香港&マカオ ──

新納三郎 作

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新納三郎宛


 香港の九竜地区を専用の観光バスで走っていると、あけた窓から一種独得の柔らかい匂い、日本では嗅いだことのない匂いが流れてきた。かすかな匂いだが、何やら甘く怪しく、危険で、執拗な感じがこもっていた。
 飛行機による海外旅行につきものの時差や環境の急変で、まだ多少の混乱と疲労が抜け切らない僕の頭にも、その匂いをどこかで嗅いだ記憶が甦った。しかし、どこで嗅いだのか、どうしても思い出せない。
 バスは、九竜のごみごみした繁華街の人波をかき分けるようにして走っている。中国の盛り場の匂い、中国人の生活の匂い、つまり、これが香港の匂いというわけだろう、と僕は思った。風向きのせいか、匂いはやがてふっと消えた。
「いま何か匂わなかった?」
 僕は、飛行機の中で知り合ったパック・ツアーの同行者に尋ねた。
「ジャスミン茶の匂いよ」と彼女は答えた。
 ああ、と僕は苦笑する。その朝もホテルでジャスミン茶を飲んできた、というより無理に喉に流し込んできたばかりではないか。前夜遅く着いた香港ヒルトン・ホテル十一階の僕の部屋のサイド・テーブルにあったのも、水ではなくて、保温のためだろう、厚い布カバーを被せた中国式(?)ポットに納まったジャスミン茶であった。
 不覚にも僕は、それまで日本でジャスミン茶というものを飲んだことがなかった。

 前日―—三月十九日午後十一時過ぎ、予定より二時間近くも遅れて、僕ら香港・マカオ・ツアー一行の便乗するパンナム001便は、軽い興奮のざわめきに包まれ、啓 徳空港をめざして高度を下げ始めた。単独参加の僕だが、香港・マカオは初めてである。いや、まだ中国大陸にも台湾にも行ったことがないから、その意味では初めての中国への旅であった。それもさる企業の招待旅行だから、半ば偶然の旅というべきで、僕は欠員補充という形で、一般募集のパック・ツアーグループに編入されたのだった。
 夜が遅過ぎたせいか、座席の位置のせいか、飛行機から例の〝百万ドルの夜景〟はほとんど見えなかった。僕のほうも、久し振りに日本を離れるというのに、心は妙に弾まなかったし、また、これも単独参加で静岡からきたという隣席の、若いチャーミングな同行者に気をとられてもいたので、有名な夜景など、どうでもいいという気分だった。
「サングラスがとてもお似合いだわ」と、いわゆる団塊の世代らしい同行者が言った。
「ガードは大丈夫だから、万一の時の通訳は頼んだよ」
 英語を喋れない僕は、大学の英文科出だという同行者に、お世辞半分で念を押した。
「自信ないわ。でも、中国人の話す英語なら却って聞きとりやすいかも、ね」
 同行者は、屈託なげにケラケラ笑った。袖触り合うも多生の縁を願った僕に、同行者のほうからガードを頼んできたのである。サングラスを見込んで頼んできたのかも知れないけれど、顔をやさしく見せるため、いやむしろ、やさしくなるために掛けたのだから、似合わなくても困るが、似合っても何やら困る僕のサングラス。
 それにしても久し振りの外国、初めての香港・マカオ、そして若いパートナーとせっかくペアを組みながら、僕の心が弾み切れないのは、四十五歳という齢にもよるだろうが、実をいうと、トゲのようなひっかかりも心底にあったからだ。
 意識するなと言われても、やはり僕らの世代では、侵略戦争の過去を(たぶん必要以上に)意識してしまう。敗戦時、中学一年だった僕に〝戦争責任〟はないはずだが、それは国内だけで通用する話で、日本に侵略された傷痕を持つ外国へ行けば、少なくとも僕の意識の中では年齢の〝免罪符〟がさほど役立たないことを、ずっと以前の、といっても昭和三十年代半ばの短い外国生活でも思い知らされていた。
 いや、外国へ行くまでもない——結局は卒業を果たせなかった学生時代、半ばアルバイト、半ばは革命をめざし“プチブル根性の克服„などという、今から思えば笑止千万な若い気負いでつづけた日雇い労働の日々、ともに働く在日朝鮮人たちとの交流の中でも、そのことを思い知らされたのである。ましてや中国に対し、日本人は最大の被害を与えている。しかも戦後処理を誤まったばかりでなく、いわゆる南京虐殺や侵略そのものさえ否定する日本人がいて、中国や韓国からの非難もやむことがないではないか。
 僕の父も下士官として日中戦争に従軍し、金鵄勲章をもらった。あの〝大虐殺〟で知られる南京占領などから南転して、香港に近いバイアス湾上陸と広東(広州)占領、さらにトンキン湾上陸と南寧占領にも参加している。最前線で戦う下士官や兵が、軍人最高の栄誉だったという金鵄勲章を、戦死によってではなく日本に生還しながらもらうことの意味を、僕は戦後になって推量したものだ。父は一体、何人の中国兵、中国人を殺したのだろうか、と……。
 たしか敗戦の翌年、僕は、戦地で撮った父の従軍スナップを何枚もアルバムから引き剥がし、破り捨てたことを憶えている。怒った父は僕を殴りつけたが、母は「戦犯で掴まるのを心配して破ったに違いなか」と僕を弁護してくれた。今から思えば、愚かなことをしたものだし、むしろ反面教師として、その種の写真は残しておくべきだったと悔いるのだが、当時の僕は、生活の大黒柱である父が戦争犯罪人で掴まることを恐れたからというより、ただもう破り捨てずにはおれない何やら激しい衝動に駆られて、そうしたのだった。
 戦後の素朴な反戦平和・民主主義教育の影響、少年期の純粋さ、あるいは生来の軽佻浮薄さ、口やかましく厳格に過ぎた父への反抗期的反撥——それらの理由を合わせても、僕は、その時の自分の行為を充分に納得することができない。それは戦争で父が犯したに違いない罪悪を、単純に恥じた上での行為でもなかった。そういう言い方をすれば、戦後の僕は〝恥〟という感覚にきわめて鈍感になっていた。
 やや皮肉な成り行きだが、その後、何らかの原因で精神が挫折するたび、過去の写真をすべて破り捨てるという僕の(青春期の誰にでもありがちな)いわばセレモニー的・自己罰的な補償癖も、父の従軍スナップを破棄した時を嚆矢とする。類推すれば、従軍スナップを破棄したことで、僕は父と旧日本ばかりでなく、〝軍国主義少年〟という過去の自分を罰したつもりだったのかも知れぬ。
 そして、同時にあの戦争責任を国民にもアジア諸国にも取らない〝恥知らず〟な日本のリーダーたちと同様、〝過去からの逃亡〟を願う意識も働いていたはずである。写真と一緒に破り捨てるべきものの集積が、もはやセレモニー的補償行為などでは手に負えないほど大きくなった、と感じ出した青年期以降、僕のほんとうの逃亡が始まった。故郷からの逃亡、日本からの逃亡、家族からの逃亡、つまりは自分自身からの逃亡……。
 日中戦争の〝手柄話〟を戦時中も戦後も、ただの一度も家族や僕にしたことがない父を、僕はひそかに尊敬していた。が、逆コースの半ばの定着に勢いづいてか、老いの心の弱まりか、それとも酒に酔い過ぎたのか、帰省時に同伴した僕の妻に金鵄勲章を出して見せ、よもやと思った古い戦 さの手柄話をくどくど語り始めた父の姿に、僕はがっかりしたものだ。
 戦後生まれの妻は、そんな父のことを蔭で「ひどい脳軟化症。すぐ入院させなければ」と評したので、僕は二重にがっかりする羽目となる。「脳軟化症」は妻の皮肉でも、家族と引き裂かれ、三年近くも侵略戦争に駆り出されて、運よく生還したものの、青雲の人生設計が狂ってしまった父の半面の憐れへの若干の理解を、戦無派の妻にも望んでいたのだけれど。
 旅の心が弾まない今一つの理由、先の児戯にひとしい写真破棄癖とも関連する、というよりは僕の〝本性〟とも関連する理由もあった。
 罪が生起するのは戦争だけに限らず、一般的には戦争はむしろ特殊なケースに過ぎない。すなわち現実の生活で、多かれ少なかれ人は他者を傷つけずには生き得ないが、それにしても僕は、肉親同胞を含むあまりにも多くの他者を傷つけ過ぎてきた。なお僕に震撼を残すその二度目の妻子とも別れたのは二年前だが、すでに父のそれにもまさるあらわな鬼相を覆い隠すため、下請けながら仕事の独立自営を機に僕はこの十年来、視線の行方どころか目の所在すら定かでないほどの度つきサングラスを、顔から外せないテイタラクとなっている。
 加えて、その鬼相の最初の明瞭な発現の時としか言いようのない二十代の半ば、大仰にいえば僕は自分にも日本にも絶望し、再生の希望に燃えつつ外国へ逃れたが、その希望もかなわぬ生殺しのまま、わずか四ヵ月で日本に追い返された無念の記憶も、以後ひたすら不徳の馬齢を重ね、疲れはて、鬼相のみが深まる二十年の歳月の中を生きつづけ、かつての外国逃亡と旅の性格は全く異なるとはいえ、ともかく外国・香港をめざす僕の心の弾みを妨げたかのごとくであった。
 別れた子供たちの顔が目先にちらついて離れないのでは、心の弾みようもないのである。


 熱帯圏に属する香港だけに、三月でもさすがに暖い。年甲斐もなくジーパンにTシャツ、サマージャンパーという軽装でも汗ばむくらいだった。
 通関に時間をとられ、バスでホテルに着いた時、もう午前零時を回っていた。機内でブロンドのスチュワーデスがサービスするスコッチを飲み過ぎたせいか、喉が乾いた僕の目にすぐとまったのが中国風のポットと湯呑みというわけだった。てっきり普通のお茶だと思い、それでも用心して口に含むと、変な味がした。中国茶には違いないが、その味と匂いは僕の、いわば食文化的警戒心を呼びさますに充分な異文化の気配を漂わせていた。甘く怪しく、危険で、執拗な気配を……。
 しかし、喉の乾きはどうにもならない。添乗員から「生水は飲むな」とのきついお達しもあり、冷蔵庫にはジュースやアルコール類ばかり、それに夜半ボーイに湯ざましを注文するのも面倒なので、我慢して飲んだ。招待客の僕だけ一人一室、訊く相手もいない。
 食文化の国際化が進んでいるとはいえ、人間は本来、飲食物に対してきわめて保守的といわれる。現に旅慣れた同行者たちの中には、インスタント・パックのミソ汁や日本茶を持参する者もいた。翌日、大食堂でのバイキング形式の朝食の時、初めてその名を知ったのだが、やはり食卓にはジャスミン茶しか置かれていなかった。やむなく僕は、脂っこい中国料理をジャスミン茶で胃に流し込んだ。味覚保守の僕は、ジャスミンの花や香りのイメージに反して、ジャスミン茶にはどうしても馴染めないのだった。
 けれども、観光バスの窓から流れてきたあのジャスミン茶の匂いは、なぜかそれほど不快ではなかった。舌や喉ではなく、鼻だけで感じたせいかも知れぬ。そういえば、と僕は車内の前方に佇む通訳兼ガイドの中年の中国人女性に目をやった。簡素なツーピース姿で、言葉遣いもアクセントも日本人と全く変わらないほどの語学力と、どこか翳りを含んだ小柄な笑顔が、最初から僕らの注意を惹いたのだが、彼女も同じジャスミン茶の匂いを漂わせていたことを、僕は思い出していた。
 朝一番に訪ねたタイガーバーム・ガーデンを見て外へ出た僕と同行者のすぐ傍で、たまたま小雨を避けて軒先に立っていた彼女と視線が合い、互いに何となくほほ笑んで、日本に行ったことがないというのに、どこで、どうしてそんなに上手な日本語を学んだのかなどと、訊かずもがなの詮索をつづけている時、これまた風の加減か、僕の鼻をかすめた彼女の匂いがジャスミン茶の匂いだったのである。彼女は私事については言葉を濁し、ほとんど語らなかった。
「彼女にはどこかもう一歩、人を踏み込ませない壁があるわ」
 去って行く中国人女性ガイドの後姿を見送りながら、同行者がささやいた。
「職業柄、客に一定の距離を保つ必要があるのだろう」と答えたものの、僕も内心、同行者の感想に同意していた。
「それとも、僕と同じぐらいの年格好だから、日本軍の香港占領で何か嫌な目に遭ったのかな……」
「大陸から逃げてきたのかも知れないわ。ベトナムのボート・ピープルもいるそうだけど、ここの住民の大部分が大陸からの難民か、その子孫でしょ?」
「つまり、香港は逃れの町というわけだ」
 僕は、旧約聖書に出てくる〝逃れの町〟を何となく意識しながら、また、若い頃の〝逃れの町〟をめざした海外逃亡の記憶も重ね合わせながら、そう言ったのだった。
 まさに若さのせいだろう———左右・中庸を問わず日本社会の〝出る杭は打たれる〟どころか、人がわずかに異質を持つだけで〝出ない杭〟さえも打たれるムラ社会文化、物蔭からの中傷と足の引っぱり合いの陰湿矮小な文化風土につくずく愛想をつかし、左翼崩れなどにはろくな働き口もない高度成長前の生活苦にも嫌気がさして……
 さらにはわが身の不徳———失った実質的な最初の〝妻〟、今となっては唯一だったことを思い知る〝妻〃との愛と、その愛に背く、いやもしかしたらその愛に似合いの、まるで必殺の相打ち技のように互いにえぐり、えぐられた傷の深さの苦しまぎれに、文字通りの〝逃れの町〟に擬した外国ソ連へ逃れ出た二十六歳の頃のことを、僕は思い出していた。
 そして、これも若さの余慶というべきか、少なくとも〝逃れの町〟での再生と自由と開放をめざす僕の心は、不安と隣り合わせながら、逃亡の船中でも逃亡先のソ連でも、弾みに弾んでいた。 愛するニノチカと出会ったのだから、なおさらではないか。
 当時は、現在のように自由に海外へ行ける時代ではなかったので、商社の嘱託通訳として渡航し、機を見て現地退職、その首都の大学で学びたいという身勝手な青写真の〝海外逃亡〟も、当の商社におけるムラ社会的人間関係と、それに反撥する僕のエゴの衝突によって、たちまち終止符を打たれる結果となるのだけれど、日本に追い返された後も、北海道・知床から密航を図るなど悪あがきをつづけた挙句、経済生活も破綻して、結局〝海外再逃亡〟をあきらめざるを得なかった。
 たしかに〝逃れの町〟への逃亡は、明日の幸せを賭けた跳躍でもあるにせよ、体は逃れても、心は罪や文化や自分自身から逃れ得ないことの意味の重さに、背を向けられるほど当時の僕はまだ若く、認識不足でもあったのだが、それだけになおさら、近くは日中戦争や内戦や共産革命、そして文化大革命などから〝逃れの町〟香港に——それも絶えざる不安と隣り合わせの香港に、再生と自由と開放を求めて逃れ出ることに成功した難民たち、つまりは現在の香港市民たちのありようが、何やら急に気になり始めたのだった。

 仕事中は日本のガイドなみに能弁な働き者で、サービスも行きとどいた中国人女性ガイドに対し、早くも、いわばジャスミン茶的異和感を感ずるようなできごとが、一種のハプニングとして起こったのは、その九竜地区を走るバスにおいてである。彼女に対してというより、彼女というフィルターにちらりと映った香港や中国の文化の一端に対して、というべきかも知れぬ。
「いま町に出勤しているスリを見つけますから、皆さんも充分に気をつけて……」
 初対面以来、スリへの注意を何度も僕らに喚起している彼女が真顔でそう言った時、僕らは好奇心を刺激されながらも、思わず笑い出したものだ。香港にはスリが多いというが、それにしても獲物を捜しに「町に出勤している」スリたち、しかも彼女に顔を知られたスリたちの中の誰かを、走るバスの中から簡単に見つけ出せるほど、それほどスリが多いというのか。
 もし、彼女の言葉が、〝スリルとサスペンス〟で外国人をエキサイトさせる観光的でっち上げ、例えば窓外の無関係の通行人を「スリ」と言い立てるでっち上げではないとするなら、たしかに香港にはスリが多いにちがいない、と僕も当初はそう思った。ガイドの合い間、歩道の通行人に素早い視線を走らせていた彼女は、ものの五分と経たないうちに、声をことさらに低め、僕らにこう告げたのだから……
「ほら、交差点を渡っているあの男、白い開襟シャツの痩せた男がスリですよ」
 指示された方角を見ると、それらしい白い開襟シャツの貧相な小男が何食わぬ、というか何の変哲もない顔つきで歩いていた。バスは、歩道に移ったスリと並ぶ格好で、しばらく徐行する。中国人運転手も心得たもので、被害にあわぬようスリの顔をよく見ておけというわけだろう。
 車内は一瞬静かになったが、僕には女性ガイドの表情や声の響きのどこかに同国人を外国人の前で平気で「スリ」と暴露する〝個人主義〟にもまして、暴露してもなおある種の連帯を失わないような、スリに対する隠微な仲間意識が感じられ、またそれを通して、スリ集団にも暗黙裡に、いやおそらくは半公然と一定の〝市民権〟を認めているにちがいない香港社会の、いうなれば中国流の清濁併せ呑む文化的生命力の息遣いのごときものが感じられた。
 東洋のカスバといわれた〝公認魔窟〟九竜城の存在を想起しても、僕の推察は当たらずといえども遠からずだろうし、スリはまさに本物でも、最大のカモであるはずの外国人観光団体客向けの彼の〝歩行〟は、当の外国人目当てのスリ行為に手ごころを加える、あるいは自粛するという条件でホテルや免税店、旅行会社、ガイド組合などからスリ集団に渡ったギャラのいくばくかを貰っての、連帯的・共済的な演出だろう、と僕は思った。
 またそうでなければ、いくら密室的な外国人専用観光バスの中での暴露でも、いつかはそれがスリ集団にも洩れて、中国人が重視する面子も生活権も丸潰れとなり、地下社会の安定も乱されてしまうではないか。
 とするなら、あの小男のスリはむろん顔を知られた〝大物〟などではなく、食うや食わずの腕の悪いスリ、ということになるのかも知れぬ。それとも、彼の肝心の指先に障害でも起きたのか。いずれにせよ僕には、外国人観光バスの走行ルートに沿って、大いなる屈辱と悲哀と諦観を胸に毎日ただ黙々と歩きつづけ、「スリ!」という何百人もの外国人の好奇の一瞥で生計を立てているにちがいない彼が、何やら魯迅の愛した〝阿Q〟のようにも見えてきたのだった。
 僕が以上の推察を話すと、
「気の毒だわ。でも、すぐ国へ帰ってしまう外国人にだけ顔を知られたスリなんて、少し滑稽だけど、恥ずかしくないのかしら? 感覚がどこか日本人とちがうみたい」と同行者は笑って肩をすくめた。
「ちがうね」と僕も笑った。
 とはいうものの敗戦直後の中学生時代、僕もあのスリのように何食わぬ顔をして、故郷の町を歩いていたのだろうか。僕は、自分が犯した古い悪事のことを思い出していた。結果的には、それが僕の故郷喪失と〝逃れの町〟願望の最初にして直接の動機となっただけに、忘れようにも忘れられない事件である。
 いわば目糞と鼻糞の差に過ぎないけれど、僕はスリではなく万引き少年だった。近所の悪童連を集めて万引き団を作り、本や食べものなどを万引きして回った。近所の二軒の古本屋では、一軒で盗み他の一軒へすぐ売り飛ばすという悪辣さ。人口一万余の小さな町での悪事は当然やがて露顕したものの、僕の両親に遠慮するムラ社会的〝恩寵〟から、両親にも学校にも警察にも通報されず悪事は不問に付され、僕は法的には罰されることがなかった。
 しかし、僕は許されたのではなく、何ものかによって「有罪。法的刑罰は無期限の執行猶予。永久に自分で自分を罰すべし」とでもいうべき判決を受けたことに気づくのに、ローティーンの年頃でもそう時間はかからなかった。そのような形で罪の意識が原体験的に初めて、はっきりと発生したのも、この万引き事件においてである。
 これでは〝恩寵〟どころか、蛇の生殺しではないか。むしろそれこそ最高の罰、最悪のムラ八分ではないか。もちろん、以後この種の悪事から全く足を洗ったにせよ、また法的に罰されても罪が消えるわけではないにせよ、僕はそれから長い間、あのとき少年鑑別所か少年院にでも入れられていたら、肩の重荷も少しは楽になり、別の人生が開けたかも知れないのに、と内心〝恩寵〟を呪いつづけたものだ。
 呪いつづけながら、他方では罰(救い)を求めて罪を繰り返す愚かな人生、それが新たな悪への口実ともなり、生への証しともなったような憐れな僕の人生は、この時から始まった。ただ、罪が町での刑事罰的小悪から人間関係における罪、いわば民事罰的悪事に移っただけのことで、いずれも蛇の生殺し的状況下のそれであることに変わりはなかった。「有罪。永久に自分で自分を罰すべし」なのである。まして刑罰が何やら人間に残された最後のロマンティシズム、つまり、罪に対する一時しのぎの許しの幻想に過ぎないとすれば、なおさらではないか。


 香港は、いわば全市的な摩天樓の町だ。おそらく、この全市的な摩天樓的景観に匹敵する都市は、少なくともユーラシア大陸には存在しないだろう。空から見れば、なお木造住宅が市街地を隙間なく埋めつくし、大いなる田舎にひとしい東京で、奇妙なまでにアンバランスに屹立する新宿副都心など、ものの数ではない。
 そして、九竜側の山の中腹にある展望台で、せまい海峡を挟んだこの摩天樓の町をバックに、中国人女性ガイドが香港の歴史や未来展望をかいつまんで僕らに話した時も、あのジャスミン茶的異和感が僕の胸をよぎったのだった。
 話は当然、太平洋戦争中の香港占領ばかりでなく、日中戦争にも及んだが、彼女が日本を非難しなかったのは、職業上の自明の成り行きだとしても、「過去にこだわらず、明日に向かって手をとり合おう」などといったキレイゴトも全く口にせず、ただ淡々と事実だけを言葉少なに語ったのが、僕にはショックでもあり、心の負担にも感じられた。
 というのも、金鵄勲章など父のことがすぐ頭に浮かび、その父も僕を含む日本人全体も何やら中国によって、やはり蛇の生殺しのまま放置されているような気がしたからだ。僕はかつて蒋介石が、次いで毛沢東が賠償請求権放棄など、大罪ある日本に示した数々の〝恩寵〟のことを思い出した。そこには当時の国共内戦や東アジア情勢も影響しているとはいえ、その〝恩寵〟の意味するところも、結局はあの「有罪。法的刑罰は無期限の執行猶予。永久に自分で自分を罰すべし」と同じではないか。
 彼女は、さらに最近の改革開放政策について少しばかり、かつ自信ありげに語った。彼女が背にした摩天樓群は香港の近代化ばかりでなく、きたるべき中国近代化のデモンストレーション的景観としても、彼女の心で誇らしげに意識されているにちがいなかった。むろん超高層ビルや景観などは二の次で、問題は生活水準の中身だろうが、近年、中国のそれが急速に向上しつつあることは、僕も新聞その他で知っている。
 それにしても情報統制の共産主義が、その情報の〝善悪〟は別として、今や近代化の前提ともいうべき情報化社会に転進できるか否かの課題も含め、中国と香港という体制的に異質の両文明は、近代化をめぐってどのように作用し合うのだろうか。もし、互いの弊を矯め合うとすれば、それは一中国の国内問題にとどまらぬ世界史的波紋を生み出すにちがいない。
 一党独裁、官僚主義、国営企業の二十世紀的共産主義にも明日はなく、過剰な競争原理、資源の浪費、貧富の大差の資本主義にも未来はないと考える僕は、二十一世紀を新しい共産主義が再認識される世紀と予測するのだが、 鄧小平以降の中国が、その実験台の一つになることは確かだろう。また歴史的にも分裂・分権化しやすく大人口も抱える中国は、これに成功しなければ自滅してカオス(混沌)に戻りかねない。
 さて、その夕、新都城酒樓という大きなレストランで、中国古典舞踊を見ながら広東料理の夕食をとるために出かけたノース・ポイント(北角)界隈は、香港島の中心ビクトリア地区の東に連なるのにビル街も古くて低く、何やら恐ろしく庶民的な感じの町だった。そのレストランでは、東京でたまに飲む安い中国酒パイカル(白乾児)を紙に漢字で書いて示したのに、首を横にひと振りしただけで消えてしまったボーイに腹を立て、サービス精神の欠如を言い立てる僕を、同行者は、
「人はさまざま。それより、せっかくのチャンスだから、紹興酒でも飲みましょうよ」とたしなめた。
 彼女は、ジャスミン茶にはもちろん、僕が一瞥しただけでもう辟易してしまった、極彩色の樓門や奇怪な石像群のタイガーバーム・ガーデンにも、耳をつんざく鉦やドラや太鼓の古典舞踊にも、さほど抵抗を感じていない様子だった。別れた妻と同様、やはり彼女も戦後生まれの日本人なのである。僕は、ずっと以前、ある外国特派員が「昭和の戦争と敗戦を人生最大の社会的体験として記憶する世代が去れば、日本人ももっと開放的、国際的になるだろう」と書いたことを、回ってくる酔いの中で思い出していた。
「自由と解放を求めてソ連へ逃げたんですって?」
 こちらはビールに酔った大きな声で、同行者が反問してきた。夕食後、自由行動ということになり、オプションのビクトリア港ナイト・クルーズをやめにして、同行者とノース・ポイントの薄暗い商店街を歩いていた時のことだ。
「逃げる方向が逆みたい」と同行者は、僕が予想した通りの言葉を、予想した通りの皮肉っぽさで言った。
「どうせ逃げるなら、自由の本場アメリカへ逃げればよかったのに」
 僕は酔いの軽口で〝逃れの町〟ソ連へ逃れた経緯の若干を、彼女に話したことを少し後悔しながら、
「あの頃は、まだ若かった左翼の僕にとってソ連は味方、アメリカは敵だったからね。それに仮にアメリカへ逃げたくても、英語は喋れない、何かの特技もない、おまけにカネもツテもないのだから、逃げようがないよ」と弁解した。
「でも、あなたはやがて日本へ追い返されるにしても、とにかくソ連へ、そして、そのあなたを罪の意識でさいなみつづけたとかいう気の毒な奥さんはアメリカへ、つまり、元夫婦が二人とも外国へ逃げ出すなんて、何だか悲しいわね」
「互いにショックが大き過ぎたんだろうな」
「たとえ過去がどうであれ、また相手の国がどうであれ、自由と解放を求めて日本から逃げ出したい気持ちは、私にもわかる気がするけど、どこで暮らそうと、人間である限り苦しみがつきまとうんじゃない?」
 彼女に言われるまでもなく、僕も三十過ぎの頃から、いわば自分の罪と文化に対して逃げ場はどこにもなく、どこへ逃げようと漱石の『草枕』の有名な冒頭にあるように、「唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。……越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」と一応は人なみに考え始めた時、僕の〝海外逃亡〟の意味がほとんどなかったことにも気づいてはいた。
 とはいえ、誰しもまたドストエフスキーの『地下室の手記』のように自分や人間の疑悪醜を、これでもか、これでもかと自虐的に暴き立てたくはないのだから、あの二十代の〝海外逃亡〟も〝海外雄飛〟にすり変え、青春のなつかしいロマンの記憶として神棚に祭り上げ、さわらぬ神に祟りなしで、あれこれほじくり返さないようにしてきたのだった。
 しかし、『地下室の手記』ほど気狂いじみてはいないにせよ、なぜか自分の〝海外逃亡〟の真実を見定め、過去の何かにきっぱりとケリをつけたい、との奇妙な情熱が湧き上がってきたのは、おそらく〝逃れの町〟香港の夜の、何やら怪しげな気配にみちた薄暗い下町、という舞台装置によるのかも知れぬ。
 僕の〝海外逃亡〟が単なる妻その他への罪の意識、ムラ社会文化の忌避、ロマンや冒険志向のみに起因しないこと、そこにはもっと醜くやりきれない動機がひそんでいることは、当事者の僕自身が一番よく承知していた。ただ、その意識にベールをかけ、中身をはっきり見まいと努めただけなのだ。
 一体、僕にとってソ連逃亡とは何だったのか。
 ベールを半ば剥いでありていに言えば、失業のないソ連へ行けば食いっぱぐれはないだろう、仕事もクビにならず、また〝アカ〟の前歴も勲章にこそなれ障害にはならないはずで、時に可愛いロシア娘と結婚して、日本での妻との古傷も癒せるだろう、日本語教師としてうまく立ち回ればモスクワ大学教授も夢ではないだろう、などという期待をひそめた逃亡の動機が浮かび上がってくる。
 が、それも僕が人にも喋ってきた、おもて向きの動機に過ぎない。そのような世俗の期待の奥にひそむベールをさらに剥ぎ取り、いわば香港という〝逃れの町〟の城壁の縁に手をかけ心の底を覗き込めば、二十代前半の僕、革命運動から追われ、妻とも別れた後の僕が、日本のムラ社会的全体主義という木の檻にうまく適応できず、そこの競争社会すら嫌悪し、かつ恐れて、ソ連という政治的全体主義の鉄の檻に移ろうとしただけのこと。要するにその檻の中の〝社畜〟ならぬ〝政畜〟として、餌と女の安定供給を望んだだけのことではないか。
 すなわち、もはや日本では自分自身を律しきれず、自由と解放どころか自分を律してくれる新しい(?)モラルと秩序を求め、比喩的には束縛と禁欲を求めて、さらにはたぶんある種の罰のカタルシスも求めて、〝逃れの町〟ソ連へ逃亡したのではなかったか、という動機の正体が見えてくるのだった。

 ノース・ポイントの薄暗い商店街は、商店街というより半露天商街というべきで、歩道脇にはさまざまな商品を並べた露天商が露台をつらね、おそらく夜の時間帯のせいだろう、車道の半ばは臨時の商品置き場になっていた。
 どういうつもりか、それがこの場末商店街の流儀なのか、傘を被った電燈たちは両側の商品だけは、まぶしいほど照らし出しているのに、内部は暗く、だから光りは逆光になったり、人間の顔を下から照らしたりして、何やら店員たちはみな無気味なシルエットの印象であった。他の日本人観光客の姿も全く見あたらず、中国人客すらまばらだったから、その無気味さはいっそう際立った。
 僕は条件反射の犬のように、〝国際犯罪都市〟香港のイメージを思い浮かべ、昼間カービン銃を肩に九竜の繁華街をパトロールしていた警官たちのことも思い出し、急に不安になった。こういう場合、女性のほうが度胸があるのか、同行者は冷やかし半分で店をゆっくり覗いて回る。
 客も少ないのに、なぜかこの半露天商街には奇妙な熱気が感じられた。あえて言えば、何やら人間の心の闇、心の無明をひそめる街の暗がりのあちこちからにじみ出るような熱気、いずれも無言でまとわりつく店員たちの目の光りのような熱気、そう、あのジャスミン茶の匂いにまみれたような熱気だ。ここも 噂に聞いたキャッツ・ストリート、すなわちむかしの泥棒市の同類だろうか。同行者にガードを約束した手前、僕は涌き上がる不安を抑えつつ、この奇妙な熱気はどこからくるのだろう、と考えた。
 そして、答えは〝逃れの町〟以外にあり得なかった。例えば客は少なくても彼ら同士、住民同士の連帯と互助で保っているのである。
 一般市民も恐れて近寄らず、犯罪者が巣くい迷路も多いというカスバ九竜城も、たぶんこのような熱気にみちているにちがいない、と僕は思った。政庁は香港の近代化と犯罪撲滅のため、九竜城を取り壊すらしいが、たとえ取り壊しても、新たな九竜城がどこかに必ず生まれるだろう。九竜城は〝逃れの町〟の中の〝逃れの町〟、いわば窮極の〝逃れの町〟だからである。
 そこが外から見れば不安な恐怖の場所でも、いったん中へ逃げ込めば、被迫害者・被差別者同士の強固な連帯やむき出しの人間性とともに、助け合いや驚くほどこまやかな人情にあふれていることは、僕も学生時代、少し気取ってゴーリキ ー流に〝僕の大学〟と呼んだ日雇い労働者の世界でのアルバイト体験から、多少は知っていた。〝裸〟に近い人間たちの苦楽、哀歓を見せつけられたあの世界も、一種の〝逃れの町〟だった。しかし人間は、まして若者はそこにとどまるわけにはいかず、〝卒業〟しなければならないにしても、その先に何が開けているというのだろう。


 三日目、三月二十一日、晴天。朝からオプション、日帰りでマカオ見物に出かけた。
 水中翼船で約一時間二十分、マカオ外港に着く。香港からついてきたあの中国人女性ガイドは、桟橋前のバス・ターミナルで地元の男性ガイドと交替したが、縄張り主義がよほど徹底しているのか、引き継ぎが終った途端に貝のように沈黙してしまい、僕らが何かを尋ねても、黙ってマカオのガイドを指や目で示すだけだった。
 どこか大阪の喧噪と活気を思わせる香港に比べると、いかにも鄙びた、というか風情のあるマカオには、周知の通り聖ポール天主堂跡、孫文記念館、ドッグ・レース場など名所も多く、タイパ島に至る海橋マカオ・タイパ橋のたもとにあるリスボア・ホテルの有名なカジノでは、僕も賭博の真似ごとをしてみた。が、パチンコさえ嫌いな僕には、カジノなど何の関心も湧かぬ。
 東京のある友人は「パック・ツアーの海外旅行など絵ハガキよりちょっとましなだけ」と笑ったものだが、当初、なぜかマカオの印象が稀薄だったのは、短い滞在時間のせいばかりでなく、香港でのそれをしのぐ駈け足見物で、僕にはほとんど興味のない、いや小遣いが乏しいので興味の持ちようもない免税店でのショッピングの時間だけが、やたらに長く退屈に感じられたせいかも知れぬ。
 マカオのシンボルといわれ、背の高い表壁面だけが奇蹟的に残る聖ポール天主堂の〝残骸〟にしても、映画やテレビで見るよりも実物は意外にちっぽけで、奇蹟の迫力にも欠ける、との感想しか初めは浮かばなかった。
 それでも、マカオ南端のバラ岬に近い丘から、狭い海域越しに連なる共産中国大陸のゆるやかな緑のスロープと、五星紅旗らしい赤旗がはるかに望見された時、また、マカオと陸接する中国領との国境関門————僕ら観光客が一定の距離までしか近づけなかった、古い石造アーチの関門を目にした時は、島国に住み〝国境〟感が薄いだけに、ある種の感慨が湧かないでもなかった。
 すなわち、これも〝逃れの町〟マカオの入口にふさわしい古びた頑丈そうな、しかし、どこか蠱惑的なアーチ関門を見ていると、僕にはその石門が、悲劇が待ち受けているとも知らずに、テーバイ国へ向かうオイディプスに謎を歌いかけた、あのスフィンクスのようにも思われてきたのだった。〝逃れの町〟をめざす中国人にとって、いずれの側からくぐるにしても、このスフィンクスの門は謎を歌いかけるにちがいない。そして一体、僕にとってのスフィンクスは〝逃れの町〟について、どのような謎を歌いかけてきたのか。

 さて、その日の午後、香港に戻った僕らは、今回の小旅行の圧巻となった光景に対面することになる。アバディーンだ。
 ビクトリア地区のちょうど裏側の小湾に面するアバディーンは、蛋民と呼ばれる水上生活者が蝟集し、何やら〝竜宮城〟のような水上レストランも海に浮かぶ高名な観光地である。バスに揺られて山を越え、途中、泳ぐにはさすがに季節が早過ぎたが、これも有名な海水浴場レパルス・ベイで少憩した後、アバディーンに入る。
 はてしなく再生産される栄養物や排泄物、そして若干の毒物などを黒い波のうねりの上にも下にも浮かべ、というかくわえ込み、いつのまにか溶解し、呑みつくしながら、しぶとく脂っこく生き抜いているといった感じの、汚く猥雑で豊饒な海————その海面を走り回る渡船、漁船、サンパンのエンジンの音にみちた岸壁沿いには、岸からそれぞれの板橋を渡した帆のないジャンクの大群が連なり、甲板に部屋を建て増したそれらのジャンクの多くは、漁業を営む蛋民たちの住居で、船上には犬や鶏の姿も見える。
 岸壁では、強引な客引きが何やら叫びながら右往左往し、子供たちは安っぽい土産品を手や肩に、群がる観光客にしつこくつきまとい、時に子猫のように体をすり寄せてくる。
 蛋民たちの顔は陽と潮に灼かれて浅黒く、服装も粗末だが、見たところ表情はみな明るくて屈託がなかった。月並な言い方をすれば、それでいて誰もが何やらゴキブリのような生命力をひそめていることが、そういう生命力を失って久しい僕には、直観的にわかったのである。何よりもまず、目の光り方がちがうのだ。
 初めは、この猥雑にして貪婪とも見える光景や人間たちに圧倒され、半ば立ちすくんだ僕と同行者も、彼らの生命力に感応したのだろう、やがて自分もその光景の中で生きているような錯覚に捉われ、喧噪の岸壁を同じ一人の人間、いやもしかしたら同じ一匹の動物として、自然にうろつき始めたのだった。そのような旺盛な同化力の雰囲気も、アバディーンにはみちていた。
 しかし、その同化力には、開放的な生命力のみにとどまらぬ別のパトスも、明らかに感じ取れた。そう、僕は若い頃に見たアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』を思い出していた。
 あのフランス映画のハイライトは、抑圧的な金持ちの友人の大金と女を奪うため、ヨット上の殺人をなしとげて港町に上陸した主人公が、人間の卑しさ、無気味さ、哀れさを目の隅に(象徴的には、画面の魚市場の露台に並ぶ死んだ魚たちのクローズ・アップでも)現しながら、抑圧者からの自由と解放の喜びを抑えに抑えて、むしろ何ごともなかったかのような顔つきで、露天の市場をさまようシーンだが、港町アバディーンとその住民には、旅行者を比喩的にはドロンの半ば罪障の目が示していると同じ自由感、解放感にひたらせるエトスが歴然と感じられた。これほど露わではなくても、昨夜ノース・ポイントに漂っていた熱気も、おそらく同じ類いのものに相違ない。
 聖書によれば、カナンの地やヨルダンの彼方にあるという〝逃れの町〟にいったん逃げ込めば、誤ちの殺人者も(実をいうと狂気による以外、すべての犯罪は、というよりすべての罪は結局のところ〝誤ち〟によるのだが……)罪の追及を免れるという、あのいわば生殺しの自由感、解放感である。演出のルネ・クレールがそこまで意識したかどうかは不明だが、僕にはアバディーンに似た港町でのドロンの目が、まさに〝逃れの町〟をさまよう罪障の目のごとく感じられたのである。
 〝逃れの町〟香港の陸上市民からも時に軽蔑され、差別されるというこの蛋民の町は、時に恐れられる九竜城以上に、まさに〝逃れの町〟の中の〝逃れの町〟、生殺しの〝逃れの町〟なのだろう。
 人間が内部に神と悪魔を潜在させるからこそ、また(古い言葉を使えば)真善美、疑悪醜を心に同居させ、鋭く矛盾させるからこそ、さらには中国の春秋戦国の古代から文化大革命、その反作用的な改革開放の現代に至る歴史の波乱にも見られるように、政治や文化の行方も一所不在だからこそ、逆に〝逃れの町〟は必需と言えるのかも知れぬ。
 そして、今や世界的に政治や文化の行方も一所不在なのである。阿片戦争の因縁以来、長らくイギリスに統治された巨大な自由港香港——中国大陸にとってばかりでなく全世界にとっても、現代最大の〝逃れの町〟の一つであるかのごとき香港を、中国政府が性急に〝解放〟しない理由の若干には、そのような文化的摂理も働いているのではないか。
 アバディーンに戻ろう。
「政庁はアパートを建て、陸上生活を奨めていますが、蛋民たちは陸に上がりたがらないようで」と中国人女性ガイドは苦笑しながら説明した。
 ガイドによれば、蛋民たちが何世紀も前から水上に住みついた動機には諸説があり、定説はないという。けれども、東南アジアに見られるような陸が湿地のための水上生活でもなく、人口過剰のせいでもない蛋民たちの水上生活の起源が、僕には、当時の漢族の圧迫や漁業の利よりも、自由な密貿易や海賊行為の便に多くあるのではないかと思われた。陸から追われれば海に逃げ、海から追われれば陸に逃げる。
 中国名が香港仔、また、阿片戦争以前の香港自身の起源ともいわれるアバディーンは、その意味でも文字通りの〝逃れの町〟なのである。英系最大の企業ジャーデン・マセソンを含む土着香港資本の父祖の大方の出自も、密貿易者や海賊の類いだというが、蛋民に比べたら、彼らは阿片戦争後の新興勢力に過ぎまい。
 それにしても、なぜ蛋民たちは陸に上がりたがらないのか。僕のこの疑問は、満艦飾キンキラキンの〝竜宮城〟の水上レストラン海角皇宮に向かう、亀の背ならぬボロ渡船に乗った時、不意に解けた。いや少なくとも僕は、解けたと思った。
 それは全くのボロ艀に過ぎなかった。が、艀に揺られているうちに、たぶん〝逃れの町〟のあの生命力やパトスに触発されたのだろう、かつての〝逃れの町〟ソ連をめざした若い日の船旅の記憶が、突然甦ったのである。便乗した船は二千トン足らずの小貨物船ながら、海が一般にないでいたせいか、僕は十余日の航海中、ただの一度も船酔いをしなかった。
 船酔いをしなかったどころではない。なぎといっても、外洋は揺れる。士官待遇の乗船通訳で、船中何もすることのない僕には、海はまるで搖籃のように揺れ、充分に夜の睡眠をとりながら、なおベッドで横になり、あるいはソファーに腰を下ろすと、昼間でもたちまち瞼が重くなった。かといって眠ってしまうわけではなく、ただ日常の時間、社会的時間のごときものが消え去り、いわば半覚半睡の無限・夢幻の空間となった僕の脳裡を、それこそ星にまでとどきそうなさまざまな想念が、ゆっくりと流れ動いた。
「いくらすることがないといっても、よくそんなに眠っておれるね」と船酔いに苦しむ同僚が、うらやましそうな顔をしたものだ。
「眠っているわけじゃないけど、船酔いをしないのは、生まれ故郷の家の前にかなり急流の小川が流れていたから、その水の音を子守り歌代わりに聞きながら育ったせいかな」
 僕は、たしかそんな返事をしたはずだが、ともかくいわば超時間の無限・夢幻の宙空で、僕の心も体も、かつて経験したことのない心地よい揺曳と安らぎを覚えていた。
 しかし、ひとたび起き上がりフロアを歩く時、当然のことながら僕を倒そうとする船の揺れ、波の揺れと絶えず闘わなければならぬ。平地にいるような、比喩的には農民のような安定感は船にはなく、その不断の揺れに無意識に対抗しているうちに、いうなれば揺れに逆らい直立しようとする意思とエネルギーが、そして、やがて始まる外国生活に対する満々たる闘志のようなものが湧き上がってくるのを、僕は感じていた。
 艀に揺られながら、その無限・夢幻の揺曳と安らぎ、また、揺れに対する直立志向の闘いの感覚を思い出し、蛋民たちが陸に上がりたがらないはずだ、と僕はうなづいたのだった。岸壁につないだジャンクの家の揺れも、外洋に浮かぶ小貨物船のごときものだろう。そして、考えたら〝逃れの町〟香港の歴史や文化自体が、いや争乱にみちた中国の長大な歴史や文化そのものが、この二つの精神的要素の併立、対立、統合の反復の歴史であり、文化ではなかったのか。
 共産主義の現代中国と異なり、自由な香港では、生きるための闘いは熾烈とならざるを得ず、従って、その二つの精神的要素もストレートに現れざるを得まい。ノース・ポイントの半露天商街の暗い熱気もそうだが、アバディーンの目くるめく活気の源泉も、結局のところ、生殺しの〝逃れの町〟を心に抱きつつ自由な人間、解放された人間の内部の、その二つの精神的要素のありようのすさまじさ、すなわち香港人の生の闘いのすさまじさのようなものだろう、と僕は考えた。
 時折、潮風に乗って、あのジャスミン茶の匂いが僕の鼻をついた。またか、と僕は笑った。蛋民たちの〝揺れる家〟から流れ出た匂いだろうか。それとも物売りたちの……
「ここでも匂うんだね」と僕は同行者を振り返った。
「何が?」
「ジャスミン茶さ」
「もう慣れたでしょ?」
「どうにかね」と僕は答えた。
 ほんとうは、まだそれほど慣れてはいないのだが、仕方なしに朝昼晩と飲みつづけている間に、初めほどの抵抗を感じなくなっていた。三月下旬というのに連日むし暑かったので、喉もむやみに乾いた。汗っかきの体質だから、なおさらである。
 香港での耳学問によれば、中国には茶の種類が多く、僕らは半ば偶然ジャスミン茶にぶつかっただけで、町で嗅ぐあの匂いも、実は中国茶の総体的な匂いなのかも知れないが、ジャスミン茶しか飲まされなかった僕にとって、そんなことはもうどうでもよかった。とにかく〝逃れの町〟香港にはジャスミン茶の匂いがよく似合う、と僕は思った。


 その夜は、最後の自由行動。
 ビクトリア・ピークに登る急勾配のケーブル・カーは、山もろとも濃い霧に包まれている。この季節の香港は一般に天候不順で、霧が多いという。僕は同行者と〝百万ドルの夜景〟が眼下に見下ろせるという山頂近くの暗い広場へ出た。
 高度のせいか肌寒く、霧が溶けて(それとも小雨が落ちてきたのか)僕らの額や頬をかすかに濡らした。展望台から見下ろす町の灯はぼんやり霧にかすんで、僕らをがっかりさせた。明日の昼過ぎ、帰りの飛行機に乗らなければならない。
「くる時も見えなかった」と同行者がため息をついた。
「今夜が最後だというのに、残念だわ」
「またくるさ」と僕は言った。
 何とはなしに、中国人女性ガイドの翳りのある小さな顔を思い浮かべていた。どのような過去から、彼女は逃れてきたのだろう。
 別れて二年経った長男に、僕は香港行きが決まってまもなく電話をかけた。先妻、というより子供たちの母親に禁じられているため、母親の不在を確かめての久しぶりの電話だった。
「土産は何が欲しい?」
 しかし、長男はそれには答えず、
「お母ちゃんは再婚するかも知れないよ。僕も賛成するよ」と焦ら立った声で言った。
 僕は、とっさには返事ができず、子供たちの顔を思い浮かべていた。覆水が盆に返らぬことを、まだ小学生の長男に説明することもできなかった。まして、お前に腹ちがいの妹が生まれたよ、とはとても言い出せない。それにしても僕は、何人の子供を闇から闇へ葬ったことだろう。その長男も、僕との結婚に猛反対する信州の大地主の祖父母に中絶を執拗に迫られながら、母親が必死に守り抜いて生まれたのだった。
 獏は悪夢を食べて生きるというが、僕は、象徴的にはあの万引き団事件以来、さまざまな罪を食べて生きてきたことを認めざるを得ない。罪の意識に押しひしがれ、後悔、自責、自罰の念にのたうち回り、年相応に自分の〝顔〟に責任を持つどころか鏡に映さなくても〝鬼相度〟の年ごとの深まりを自覚しながら、罪から罪へと渡り歩き、結果的には心ならずも「子供よりも親が大事」の無間地獄に堕ちる羽目となった悪循環の由来を、いま一度自分に問えば、自明に過ぎるわが身の不徳不実に加えて、これも結果的にはだが、生の悪しきリアリティーとしか言いようがない。
 三十代の頃、当時の新聞に連載されたイラン・ルポで、今は日本でもよく知られるようになったアシュラ祭の記事を読んだことがある。イスラム・シーア派のアシュラ祭は、殉教者ホサインの死の無念や苦痛、悲哀を再体験的に分かち合うため、教徒たちが鎖の束で自らの体を叩き、傷つけ、時に血さえ流して殉教者への喪の言葉を歌い叫び、というか歌い泣き、聖廟へ行進する祭りだそうだが、僕はホサインの死が千三百年も昔のことと知って、当初笑い出したものだ。
 忘れっぽい日本人————千三百年も前の事件などカスミの彼方で、一宗教、一殉教者の比ではない原爆体験すら半ば忘れかけているかのごとき日本人の一人として、不謹慎にも笑い出してしまったのだが、しかし、この一見自虐の行為が単に殉教者の死を悼むだけでなく、われとわが身の一年の罪障を罰する儀式でもあることを知り、僕には笑いごとではなくなったのだった。ただ鎖の束を使わないだけで、僕もまた罪を犯しては自分を叩き、叩いてはまた犯すという悪循環から逃れ得なかったことを、香港の〝毒気〟にも当てられ、思い出さずにはおれなかったのである。
 そういえば、イスラム世界の〝逃れの町〟もアジールというらしいが、日本の宗教では、例えば戦乱の室町期、荘園を持つさまざまな宗派の大寺社が〝逃れの町〟の役割を果たした。教義的には他力本願、ただナムアミダブツと念ずれば悪人でも(いや悪人こそ)救われるとする浄土真宗が、これに当たるのかも知れぬ。僕の家郷の宗旨も浄土真宗だが、僕は宗教に若干の関心は持っても、信仰心のカケラもない。父も、そうだった。
 たとえ状況と時代こそちがえ、父もまた戦争という罪を食べて生きる不運を担わされた人間の一人なのだろう。
 妻子と引き裂かれ、望まぬ戦場へ駆り出されて、戦うからには鉄砲を撃ち、敵を倒さざるを得ないが、そのことで仮に父が苦しみつづけたとしても、殺さなければ殺されるという戦争は、好むと好まざるとにかかわらず、父の生涯で最大かつ最悪の生のリアリティー、地獄のリアリティーを呼びさましたはずである。そのせいか、父の親友の多くは中国で一緒に戦った戦友たちだった。
 この種の生のリアリティーについては、僕にも忘れがたい記憶がある。むろん戦時中のことだが、防空壕で耳をふさいでも聞こえてくる金属音の夕立ちのような爆弾たちの降下音がひびくたび、今度こそ直撃弾だと身をすくめ、胸をふるわせた昭和二十年三月のB29による二度の大空襲に至る約一年間、僕の故郷の町でもほとんど一日おきに敵機の襲来を知らせる役場のサイレンが鳴った。
 そのたび小学校の授業は中止されるようになり、生徒たちは校庭で町内会別に集合し、僕ら六年生男子が下級生を引率して、駈け足で避難帰宅した。その中には僕がひそかに想いを寄せる近所の同学年の美少女もいた。
 この集団避難帰宅は、僕らにとって異様な陶酔にみちた〝祭り〟のようなものだった。当時は男女別クラスの女生徒にも近づき、気軽に口をきくことができるし、早く家へ帰って遊びに行くこともできる、からだけではない。迫りくるB29の爆音を聞きながら、やはり子供なりに死のイメージをどこかで意識していたし、それがまた美少女への稚いエロスとタナトスのリビドーをかき立てたのである。
 だから、それは死のイメージを背に、いうなれば盆と正月が一緒にきたような、いや故郷の祭りに倣えば、水を浴びつつ山車とともに走り回る男性的な〝追い山笠〟と、化粧の匂いや唄、三味線で華やぐ女性的な〝どんたく〟が一緒にきたような感じだった。
 敗色の深まりと、運悪く巨大な軍事施設に囲まれた故郷の町への不可避の空襲という予感の高まりから、死を背にした僕らの〝祭り〟は日ごとに興奮と華やぎと陶酔の度を加えて行った。警報のサイレンが鳴らない日は、僕らは教師の目を盗み、おどけて一斉に起立し、 柏手を打ったり〝東方遙拝〟の格好をしたりしてB29の来訪を願ったものである。
 やがて、一年近くの高空偵察と威嚇を重ねたB29の、大編隊によるほんものの空襲……。
 戦後、僕はさまざまな罪を犯したし、多少の冒険も試みたが、考えたら少年の日々、あのサイレンと空襲への予感にみちた〝祭り〟の日々に感じたほどの生のリアリティーを、単純な比較には無理があるとしても、ただの一度も感じたことがない。
 そのような異常な感覚にならなければ、死のイメージや負け戦さに対抗し得なかったのか。それとも、その感覚は僕らがまだ子供に過ぎなかったせいなのか。当時の僕が内心ひそかに期待したのは、いや熱望したのは戦争の勝利や敗北というより、この〝祭り〟の永続であった。
 今から思えば、僕の万引き団事件も一面では、敗戦で失われた生の悪しきリアリティーへの、愚かな最初の追跡だったのかも知れぬ。しかし因果応報、僕は故郷を失い、やがて日本も失って、比喩的には、あのマカオ北端に立つ国境関門のごとき〝逃れの町〟の門をくぐり、共産主義国へと逃れたわけだが、それにしてもこの双面神のスフィンクスは、いわば〝さまよえるユダヤ人〟の僕に向かい、ヨルダン川ならぬ日本海を渡って「この地に逃れてくるお前にも、罪障を問わぬ〝逃れの町〟への門は開かれている」と歌いかけたはずである。
 しかし、当時の僕は鈍感にもその歌の謎が、僕の〝嫌らしい〟故郷が鼓膜の奥で執念深く歌いつづけるあの歌——すなわち「有罪。法的刑罰は無期限の執行猶予。永久に自分で自分を罰すべし」と嗤い責めるあの歌と、そっくりそのままの判決文であることに気づかなかった。

「風は海から吹いてくる 沖のジャンクの帆を突く風よ 情けあるなら教えておくれ……」
 同行者が突然、小声で歌い始めた。その歌なら僕も知っている。戦時中に、たしか日中合作で作られた阿片戦争の映画の時に歌われた曲だ。
「ずいぶん古い歌を知ってるね」
「母が好きだったのよ。母の顔が少し似ているものだから李香蘭の大ファンでね」
 僕も見た憶えがあるのだが、そうだった、李香蘭はあの映画に出ていた。広州と香港が舞台で、清末の英雄林則徐らの反英闘争と中国人難民姉妹の苦難の物語といった映画だったと思う。エキゾチックな美貌と才気で満映のナンバーワン女優と謳われた李香蘭、後 の山口淑子自身、日中間の激動の嵐に翻弄された、文字通りの政治難民だったのだろう。
「風が吹いて、この霧を吹きとばしてくれないかしら」と同行者は言った。
 風はほとんどなく、視界を覆う霧は薄れるどころか、むしろ少しずつ濃くなって行くように見える。
「今まで歩いて、どこが一番面白かった?」
 同行者が質問してきた。
「もちろん、アバディーン。きみは?」
「アバディーンも面白かったけど、私はマカオの、あの高い壁だけで立っている天主堂が一番印象に残ったわ」
「ああ、あの原爆でやられたみたいな……」
 僕は、戦後の長崎で見た浦上天主堂の残骸を一瞬思い浮かべて、そう言った。
「昔の日本のキリシタンも、あれを建てるのを手伝ったそうだけど、その人たちが一生日本に帰れなかったことを思うと、何だか可哀そうで、余計に印象に残ったのよ」
 同行者の表情は、意外に生真面目な感じである。僕は、聖ポール天主堂の〝残骸〟を頭に描いた。秀吉、家康の禁教令から逃れた長崎のキリシタンたちが、この天主堂建設に参加したことや、百数十年前の台風で崩壊し、表壁面だけが残ったことは、マカオの中国人ガイドも説明していた。
「ピサの斜塔じゃないけれど、よくまあ、あんな格好で倒れずに立っているわね。きっと、日本のことを思いながら異郷で死んだキリシタンの心が、天に通じたのよ」
「天に通じた、か」
 僕の心が少し動いた。そういえば、あの天主堂はおかしな建物というほかはなかった。背が高く、薄く、また尖塔なども持つ不安定な表壁面より、はるかに丈夫なはずの天主堂本体のほうが台風で崩れ、表壁面だけが立ち枯れのように、何かの思い出のようにやっと残っている、いやたとえやっとでも、本体〝没後〟の百数十年間の台風その他をしのいで、丘の上にぽつんと立ちつづけているというのも、やはり一種の奇蹟のようなものかも知れぬ。
 僕がそう思ったのも、自分も人間の本体、実体のごときものをとうに失い、あの表壁面のような〝残骸〟として生きているのではないかという不安、戦後ずっと意識の底に見え隠れしながらつきまとってきた不安が、反射的に甦ったばかりでなく、とにかく表壁面だけでも倒れずに立っている何やらわびしげな実在感が、わが身に合わせて連想されたからである。
「昔の人は偉いと思うわ」と同行者はつづけた。
「信仰のためとは言っても、あなたのいう逃れの町のポルトガル領マカオにまで命がけで逃れてきて、あんな立派な天主堂を作ったんですもの」
 僕が彼女の言葉にほんの少し感動さえ覚えたのは、あの天主堂の奇蹟的な、というよりどこか近現代人的な、いわば本体なき不倒壁のイメージや、見下ろす下界は白い夜霧の海という、神秘めいた雰囲気のせいもあるだろう。が、四百年近くも昔、文字通り正真正銘の〝逃れの町〃をめざした日本人の真摯、必死の生き方が胸に伝わってきたのも確かだった。まして彼らはポルトガル語も広東語もほとんどわからないのである。
 僕は最近急に興味を持ち始めた、乱世といわれる中世後期の日本人のことを考えた。一向宗(浄土真宗)やキリシタンも含め、当時の日本人は信仰心にも厚かったが、今の日本人からは想像もつかないほどの、強靭な文化的生命力も持っていたのである。現代へとつづく偉大な室町文化も、その生命力の表出にほかならぬ。
 江戸中期の儒者にして政治家の新井白石は、中国人と日本人の相違を「中国は方にして渋れる。日本は円、温にして和」と評したが、そしてこの評は半面の真実を伝えているが、少なくとも日本人に関する限り、それは江戸期や明治以降の日本人評というべきで、中世後期の日本人は「方にして渋れる」——つまり原則を守り自己主張も多い個人主義者、という側面も兼備していたはずだ。そうでなければ、あの長い乱世は生きられないし、あれほどの信仰も生まれまい。
 マカオに逃れてきたキリシタンも、信仰に厚かったばかりではなく、「方にして渋れる。円、温にして和」という二つの特性を兼備融和するほどの文化的生命力にみちた日本人たちであったろう。当時の宣教師たちが他のどのアジア人にもまして日本人を高く評価した、いや時にヨーロッパ人以上とも評価したゆえんは、まさにそこにある。「方にして渋れる」だけではヨーロッパ人、中国人の亜流に過ぎず、「円、温にして和」もその半面が閉鎖的・排他的・独善的で文化的生命力も脆弱なムラ社会文化だけというのでは、これまた高く評価しがたいのである。
 そう考えると、これも昔から器用だったにちがいない日本人が、あの丘でこつこつと天主堂の石を削り、像や紋様を刻む姿も目に浮かんだ。そして僕は、暴政に抗するキリシタンなど一揆勢三万七千余が、女子供まで含め皆殺しにされたという島原の乱に、黒田秋月藩の士族だった父方の先祖が、幕府軍の一翼として出陣したことも思い出していた。まさに象徴的には、このジェノサイド(大虐殺) こそ中世後期の文化的生命力にトドメを刺したのだ。同行者のことも忘れ、僕はその悲劇的なダブル・イメージのキリシタンの姿に向かって、心中思わず合掌していた。
 それに引きかえ、自分という人間は一体何をしてきたというのだろう。同じ〝逃れの町〟をめざした逃亡者でも、月とスッポンではないか。
 たとえ一事でも、人の役に立つことをなしとげたか。たとえ小事でも、果たすべき義務を貫いたか。まるで小悪、小害をばらまくために生まれてきたようなものではないか。〝カネがすべて〟のからっぽ人間よりも、もっと悪い。僕は、柄にもなく頬を赤らめた。今度の小旅行も、実は観光旅行などというものではなく、心貧しく見すぼらしい自分の正体を、〝逃れの町〟香港・マカオという鏡に映しにきただけではないか、というほろ苦い、しかし、ちょっぴり心が洗われるような想念が、僕の胸をひたした。見方によれば、わずか三泊四日ながら、それもある種の〝観光〟旅行にはちがいない。
「日本に帰ったら、まずサングラスを外すぞ」
 僕は、唐突にそう叫んだ。鬼であろうと蛇であろうと、まず自分の素顔をさらけ出そう。
「そんな度の強いメガネを外して大丈夫?」
 同行者は、僕の顔を見上げた。同じ度数の普通のメガネも、家に置いてはいるのだ。ただこの十年来、普通のメガネを外でかけたことはなかった。
「せっかく似合うサングラスなのに」と同行者がからかうように笑った。僕は黙って苦笑を返す。
 その時、不意に強いジャスミン茶の匂いが、どこからか漂ってきた。それはジャスミン茶の匂いというより、何やらもう動物の体臭に近いほど強烈な匂いで、僕は一瞬、軽い眩暈を感じたくらいだ。
「ジャスミン茶の匂いがしない?」
 僕はアバディーンの、あのいわば動物的な光景を思い出し、なぜか少しどぎまぎしながら同行者に尋ねた。
「しないわ。……ここは五百何十メートルという山の上よ」
 おそらく彼女の鼻は、化粧でバカになっているのだろう。僕は、奇怪な生きものを見る思いで、霧の彼方の香港の町をすかし見た。この巨大な〝逃れの町〟、化けもののような町に漂うジャスミン茶の匂いという匂いが、じっとりと夜気の淀んだ海峡の上、港の上を白い霧と化し、一団となって立ち昇ってくる幻覚に、僕は捉われた。これが僕のスフィンクスが歌いかけてきた最後の謎なのか。風がなく、湿気も多いせいではないかと思いながらも、僕はその無気味さにたじろぎ、「香港の匂い、逃れの町の匂い……」と胸の奥で半ば邪気払い、鎭撫の呪文のつもりでつぶやいた。
 それにしても、こんな山の上にまでジャスミン茶の匂いが流れてくるなんて……。僕は訝り、その強烈な匂いに息をつめながら、次の瞬間、はっとした。あわてて指でサマージャンパーの襟を持ち上げ、自分の胸元に鼻を近づけると、もうもうたるジャスミン茶の匂いは、僕の体から立ち昇っているのだった。(昭和58年6月)

この作品は「流星群9号」に掲載したものを加筆して転載。