身に沁みる「苦悩」

 十二月七日(火曜日)、いまだに夜明け前にあって、きょう一日の始動のために、寝床から抜け出してきた。幸いにも、きのう身に堪えていた寒気は緩んでいる。だから、泣き言は免れるかと言えば、そうは問屋(とんや)が卸さない。なぜなら、寒気の有無にかかわらず、いつものわが精神的苦悩が始まることとなる。
 文章を書くには書き殴りや走り書きの駄文であれ、わが精神には常に苦悩がつきまとっている。そうであれば苦悩を嫌って、文章書きを止めれば、確かに苦悩はたちまち尽きて、精神には安堵がもたらされる。生来、わが脳髄は、きわめて凡庸いや凡愚である。それなのに私は、大沢さまに唆(そそのか)されたわけでないけれど褒め殺し、いや無限大のご好意にさずかり、文章を書き始めて以来、これまで続けてきた。そしてその歳月と、文章の量すなわち文字数は、もはや何年をかけても読み返しができないほどの無限の域にありついている。それゆえ私は、身に余るどころかまったく思い及ばなかった果報者にありついている。いやこのさずかりは、わが生涯にあって、唯一無二の果報である。だから、実際のところは大沢さまのご好意にたいして、どんなに感謝してもしきれるものではまったくない。
 さて、目覚めると私には、寝床の中でしばし、いや長い時間さまざまな妄想に耽る習癖がある。多くは悪癖であるけれど、一概に悪いことばかりでもない。なぜなら、たまには果てしない夢想に耽り、精神安定剤の役割にありついている。なお妄想を空想に置き換えれば、いろんな学びの場でもある。しかしながら多くの時は、苦悩に陥っている。やはり、悪癖であろう。できれば安眠をむさぼり、寝起きの気分を清々しくしたいものである。
 さて、先ほどの寝床の中では、こんなことを心中にめぐらしていた。そしてこのとき、心の襞(ひだ)に張りついていたことを言葉にすれば、それはまさしく「苦悩」だった。子どものころの玩具(おもちゃ)、すなわち「積木遊び」と現在の文章書きには、共に似ているところがある。もちろん、わが身に基づく考察にすぎない。似ているところの筆頭は、共に精神に苦悩がつきまとうことである。確かに積木細工は、遊びとして考案された文字どおりおもちゃである。それでも知恵や工夫に加えて、さらに手先不器用ではそれをなし得ず、もちろん遊び心にはまったくありつけない。その証しに私の場合、積木は遊具にはなりきれず、精神虐めのおもちゃにすぎなく、楽しみに触れることなどなかった。挙句、積木(木片)自体が憎たらしく思えていた。
 文章にあって、積木の木片の役割をになうのは、語彙(言葉と文字)である。少なくとも語彙を覚えるか、あるいはそれを駆使しなければ文章は書けない。さらに私の場合は、キーを叩いて文章を書いているため、手先器用が肝要である。ところが私は、生来の凡愚のみならず、きわめて手先不器用の生い立ちである。その証しにはスラスラどころか、水中の飛び石を渡るときのようにしどもどころでもあり、はたまた五月雨式(さみだれしき)にとぎれとぎれさえにもありつけないことでもある。結局、おもちゃの積木細工とわが文章書きの最も似ているところは、共に苦悩の塊(かたまり)を余儀なくされることである。
 きょうの寝床の中の目覚めにあっては、こんなことを浮かべていた。楽しい夢想か空想か、いやはや苦悩つきの確かな妄想であった。長閑(のどか)に、夜明けが訪れている。