十二月六日(月曜日)、起き出してきたけれど、寒気が身に堪えている。自然界のまともな営みゆえに、もちろん我慢するしか能はない。きのうの昼間、茶の間のソファに凭(もた)れて、窓ガラスを通しのんびりと外景を眺めていた。このところ続いている、自然界謳歌の日暮らし模様である。もちろん、安らぎや和みばかりがあるはずはなく、いや、心中には(社会貢献のなに一つもしてないなあ……)という、嘆息気分が渦巻いていた。
そんなおり、電線が揺れた。一匹のタイワンリスが、わが庭中の柚子の実を咥(くわ)えて、電線を伝って山の中へ、持ち逃げするところだった。もとより私は聖人君子ではなく、突如、怫然(ふつぜん)とした。しかし一方、タイワンリスの命の営みであることゆえに、いくらかの同情心をおぼえた。挙句、窓ガラスを揺することもなく、呆然と眺めていた。
人間とて生存のためには、命、身体、さらには精神の手入れは肝要である。きょうの私にはその一つ、身体の手入れの予約済がある。曲りくどいことを書いたけれどきょうは、予約済の胃部内視鏡検査の当日である。そのためには八時半ころまでに、「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科の受付に行かなければならない。これにたいしては、昨夕の六時ころに軽食を済まして以降は、検査体制に入っている。それゆえ現在は、いくらかの空腹をおぼえている。けれど、検査が済むまではと決意し、我慢をしているところである。それには、こんな覚悟がともなっている。すなわちそれは、せっかく厭なカメラを咥えて検査をするかぎりは、事前対応はきちんとしよういう思いである。確かに命あるものの生存は、ほったらかしにしたままではまったく果たせない。「命の洗濯」、すなわち命さえもたまには手入れが必要である。ましてや、常に病のつきまとう身体や精神には、不断の手入れが肝心である。
生きとし生けるもののすべて、生存を叶えることは難行苦行である。タイワンリスも追っぱわれるのを覚悟のうえで、いや死ぬ思いさえたずさえて、電線を這っていたのであろう。すると、このときの私は、わが身をかんがみてかなりの同情心や道議心をたずさえていたのであろうか、逃げるままに見遣っていた。もちろん、普段は憎たらしいばかりあり、こんな情け深い心情になることなど滅多にない。たぶん、このときの私は、きょうの内視鏡検査を浮かべていたのであろう。現在は準備万端、さらにしっかりと気分をととのえて、夜明け後の出で立ち態勢を固めている。
こんなことを思っているせいなのか? 今朝の寒気は、いつもより我慢できるところがある。もとより、自然界の営みには、まったく盾(たて)のつきようはない。