十二月三日(金曜日)、手っ取り早いことではカレンダーを見やれば、年の瀬の訪れは知ることができる。これ以外に年の瀬通知にはどんなものがあるだろうかと、思いをめぐらしている。すると、最も早いものでは九月になると、郵便受けに投げ込まれる「おせち料理」の予約案内がある。これには「バカにするなよ!」と言って、読むこともなくすばやく分別箱へ放り込む。十一月一日になると、年賀状発売ののぼり旗が街中に垂れる。これにもまた年年歳歳、わが関心は薄れゆくばかりであり、そして今や用無しのはためきである。十一月の半ばころからは、喪中はがきが届き始める。これには不意打ちを食らう。そしてこれは読み捨てにはできず、しばし土間にたたずんで、在りし日の人を偲んでいる。これは、最も年の瀬を実感する哀しいシグナルでもある。
一方、哀しさはないけれど最も寂しさを実感するシグナルは、厄介をきわめていた道路上の落ち葉の減りようである。落ち葉は大晦日あたりを限度にほぼ落ち尽くす。年の瀬にあっては、日を替えて少なく飛び飛びに散らばりゆく。すなわち、道路上の落ち葉の減りようは、わが最も実感する年の瀬のしるしである。あれほどに難儀をきわめていたことからすれば、素直に喜ぶべきものではあろう。ところがあにはらんや、年の瀬の落ち葉の減りようには寂しさつのるものがある。もちろんそれは、歳月の速めぐり(感)にたいする怯えに起因する。
年の瀬とは、語呂では心地良いところがある。しかし、実際のところは、心さみしいことばである。年の瀬、つまり私は、歳月の速めぐり(感)にビクビクしている。たっぷり執筆の時間のある長い夜にあっても、チラホラさえのネタもない。私は年の瀬に、うずくまっている。夜明けて道路の掃除へ向かうのも飛び飛びで、あと少しばかりである。素直に喜ぶべきものを、なんだかやはり寂しい。わが最も実感する、明らかな年の瀬のしるしである。