十二月二日(木曜日)、時は年の瀬へ向かっている。この時季に飛翔する鳥の多くには、「冬鳥」と名づけられている。季節にかかわらずわが庭中にやってくる鳥には、スズメ、メジロ、シジュウカラ、コジュケイがいる。はたまた、あまり歓迎しないけれど、ヒヨドリやカラスも加えていい。幸いにも、モズはほとんど飛んでこない。凡庸の私にはこれら以外、鳥類の知識はまったくない。家禽であればニワトリ、アヒルくらいは知っている。すなわち、実際のところ冬鳥にはどんな鳥がいるのか? など、まったくの珍紛漢紛(チンプンカンプン)である。
季節のめぐりは早や、初冬、仲冬を過ぎて、晩冬へさしかかっている。晩冬ということばは、晩春や晩秋などと比べれば馴染みがなく、だから真冬に置き換えればしっくりくる。しかしながらこのことばは、文字どおり寒々しさをおぼえるだけで、晩春や晩秋と比べればロマンの欠片(かけら)もない。晩夏を置き去りにしたけれど、過ぎ行く夏を惜しむ切なさを思えば、晩夏とてロマンに満ちている。つまるところ晩冬や真冬は、ことばに寒々さをおぼえるだけで、微々たるロマン(心)さえ遠のいている。その挙句、人々の口の端にのぼることばはつれなく、「春よ来い、早く来い!」である。
過ぎたこの秋は、秋らしい天候に恵まれず過ぎてしまった。このことでは私に、日々歯ぎしりするほどの口惜(くや)しさをもたらしていた。ところが自然界現象の天候は、「人の心」を持ち合わせていた。実際には晩秋をまたいでカレンダーに、「初冬」(十一月七日)と記されるいなや天候は、それまでの罪つぐないでもするかのように一変した。一変、突如すなわち悪天候は、後れてきた秋晴れの好天気に変わったのである。まさしく、変幻自在の変わりようだった。ところがその変わりようは、初冬、仲冬と過ぎて、晩冬へさしかかるこの時期まで続いている。すると私は、この変わりように文章のうえでは、ことばのいっちょおぼえのごとくに「胸のすく」を繰り返してきた。なお、身に沁みてありがたい恩恵に報いるために私は、常に「自然界、礼賛」の心情をも吐露し続けている。すなわちそれは、わがありったけの恩返しの証しである。
確かに私は、日々の気鬱気分を胸のすく天候の恵みに癒され続けている。身近なことでは、この時季の道路上の落ち葉しぐれの厄介さなどにも嘆かず、大空を仰ぎ心中で「自然界、賛歌」を謳(うた)っていた。いや、過去表現でなく、いまだに現在進行形のままである。なぜなら、この先も胸のすく天候は続きそうである。おとといからきのうの夜にかけては、久々の雨というより時ならぬ大嵐だった。生乾きの落ち葉を掃いて、寄せ集めて70リットル入りの透明袋に何度も下押しをし、ぎゅぎゅ詰めにすると、袋ははち切れるほどにダルマさんのように膨れあがった。黙(だま)りこくってせっせと掃いても、二時間余もかかった。それでも、私は嘆かなかった。雨上がりの青空は、わが労働にじゅうぶん報いて、胸のすく清々しさをくれたのである。
このところの私は、自然界の恩恵に報いるため、時や所(掲示板)構わず、「自然界、絶賛」をことばや文字にしている。きょうの夜明けはいまだしだけれど、私は朝空を誉め称える心の準備に大わらわである。もちろん、青空だけを望んではいない。私は自然界のおりなす、大空模様に心を癒されているのである。