十二月一日(水曜日)、とうとう今年(令和三年)の最終月が訪れた。今年もまた、つらい一年だった。いや、とりわけ、つらい一年だった。しかしながらつらさは、今年かぎりで打ち止めとはならない。それどころかこの先、生きているかぎり毎年、いや増してゆくのは必然である。今年のつらさには早くも、「とりわけ」と、表現した。すると、年々、度を増してゆくつらさの表現には、どんなものがあるだろうか。語彙の学びを生涯学習に掲げる私にとっても、もはや表現のしようはない! と、うろたえている。
今年に輪をかけて、いまだつらい余生が残っている。余生とは、オマケの人生である。子どもではないから、当時の愛読誌『少年倶楽部(クラブ)』の付録(オマケ)を待ち望んでいたときのような、ときめきの気分にはなれない。いやいや、人生のオマケは、ちっともありがたくなく、至極(しごく)こりごりである。
冒頭にあっては、こんな切ない文章を書くつもりはなかった。双六(スゴロク)に倣(なら)って、ふりだしにもどろう。私は山河・自然の風景のおりなす眺望がことのほか好きである。言うなれば、金のかからない無償の眺めである。もちろん、そのたびに金が入り用であればケチな私は、もとより好きにはなれないであろう。万事が金の世の中にあって無償の恩恵は、自然界のおりなす風景と眺望であろう。
わが家の立地は、鎌倉・藤沢・横浜の尾根をなす「円海山」山系の中にある。このため現在は、日々道路上の落ち葉の清掃に難事をきわめている。一年じゅうにあっては、集中豪雨や台風のたびに山崩れや、土砂崩れに怯えている。それでも山が好きだから、なけなしの金をはたいて、とびっきり山際の区画を選んだ。建前では後悔はしたくないけれど、本音では後悔に陥り、歯ぎしりするところがある。
川は近くにはなく、せせらぎに出遭うにも、二十分ほど歩かなければならない。海は速足で四十分近く歩けば、「鎌倉の海」の眺望にありつける。それでも、歩くのが面倒でほとんど出向かない。確かに、路傍の草むらの眺めも好きではある。しかし、私が最も好む自然界風景は、天上の大空の眺めである。無償はもとより、これほど手近な眺めはほかにない。歩きながらも、ときには立ち止まり、やや首を上向ければ、視界一面は大空である。確かに、大空は静態である。ところが、雲を抱いたり、日光の加減で、さまざまに彩りや綾をなしている。そして、その態様は無限である。大空の眺めこそ、害を及ぼさない無償の自然界の恩恵と、言えそうである。もちろん、ただならぬ入道雲や稲光は、大空のしわざではなく、大空は常に泰然としている。山紫水明、自然界の風景にあっては、私は大空の眺望にとびっきり気分を癒されている。
夜明けの空は、まだ見えない。夜が明けても、たぶん雨を降らす大空である。なぜなら、窓ガラスには雨粒が垂れている。それでも、大空に恨みつらみはない。いや、年の瀬のせく気分休めには、私は大空の眺望に託している。幸いなるかな! 大空は、尽き消えることはない。