書き殴り、「わが日常生活」

 危ない兆候はいくらでもある。半面、年年歳歳、安寧な気分や楽しみは薄らいでゆく。老体をかんがみれば、仕方のないことである。しかし、現在のところは幸いにも、わが身体には大きな病はとりついていない。実際のところで薬剤にすがっているのは、緑内障の進行防止ための一日一滴の目薬くらいである。緑内障とて、みずから申告して治療開始になったものである。すなわち、主治医が「これは大変だ!」と言われて、点眼が開始されたものではない。言わずもがなの「藪蛇」とも言えるものでもあり、私には悔いるところがある。進行も遅くこの先の余生からすれば、もう通院打ち切りでもいいはずくらいのものである。ところが快癒の宣告はいまだなく、おそらく点眼は、今わのときまで続きそうである。点眼くらいはいいけれど、目薬をもらうには半年ごとの通院が強いられる。これが厄介であり、そろそろ通院拒否の決断を胸中に浮かべている。 
 一方、これまたエンドレスを覚悟していた歯医者通いは、現在は通院の中断にありついている。このことは、まさしく僥倖である。高血圧の薬剤には用無しにありついている。現在、予約表が財布の中に張り付いているものには、「大船中央病院」(鎌倉市)における、12月6日の胃部内視鏡検査である。これとて自覚症状はなく、定期的にめぐってくる、いわば「念のため」くらいのものである。
 このほか十二月になると、「大船田園眼科医院」における、三か月先の予約を入れなければならない。ここには九月に通院したけれど、半年ごとの予約はできないシステムのため、三か月ごとに予約を入れているからである。
 難聴は耳鼻咽喉科にかかるまでもなく、テレビ通販による安っぽい集音機で我慢している。高価な補聴器を購入し、銭失いを恐れるためである。風邪症状は、市販の風邪薬に頼り切っている。老体にあってこれくらいで済んでいるのは、自己診断ではきわめて「健康体」と、決め込んでいる。
 身体が健康体であれば、愚痴ることはないはずである。それでもしょっちゅう愚痴るのは、私の場合、精神が宿病にとりつかれているのであろう。確かにこちらは不治の病であり、もはや施療や治療の埒外にある。しかしながら、気に病むほどのものでもない。いや、気を揉んでもどうなるものでもない。それこそ生来の錆、人間性を問われる愚痴の塊にすぎない。つまるところ日常生活において、安寧気分や楽しさが薄れているのは、自分自身の精神状態に起因している。
 一つだけこれ以外のことを浮かべれば、老境に入り人様との交流が細りゆくゆえと言えそうである。ずばり、生存の充実感は、人様との会話の愉しみに尽きるのである。一方通行の診断結果を怯えて聞くだけでは、もとより会話にはなり得ない。このところの私は、茶の間のソファにもたれて、日向ぼっこに勤しんでいる。ばかじゃなかろか! 勤しんでいると表現するのは誤りであり、虚しく明け暮れていると言うのが適当である。このお伴は、好物の柿と蜜柑のやけ食いである。
 「わが日常」、もちろんこんなことを書くためにパソコンを起ち上げたわけではない。もとより、きのうのズル休みの罪滅ぼしにはならず、とんでもない悪あがきである。十一月二十六日(金曜日)、のどかな夜明けが訪れている。