連ちゃん! 書き殴りの妙

 十一月二十七日(土曜日)、このところはずっとだけれど、パソコンを起ち上げても長く頬杖をついている。明らかに、危険な兆候の一つである。きのうは買い物のついでに、大船(鎌倉市)の街に存在する「行政センター(市役所分室)」へ入館した。十数年ぶりとも思えるほどに、間隔が空いていた。入館の目的は、わが生活や市政にかかわるものではなかった。ここの二階には、図書館が併設されている。この日の目的は、図書館へ上がることだった。あまりの久しぶりであったためか図書館は、勝手知っているにもかかわらず異様な光景に思えた。逆に、スタッフから見ればわが姿は、かぎりなく神経を尖らすほどに、異様に思えたであろう。見知らぬ老人が大きなリュックを背負い、覆面みたいにマスクを着けている。わずかに覗くところは、皺だらけである。そのうえ、書棚近くをあちらこちらへうろついている。確かに私は、読むあてどなくうろついていた。スタッフが盗難などに、身構えるのは当然である。わが心中は、(驚かして済まないなあ……)、という思いにとりつかれていた。それゆえ、驚かしたことにたいし、(詫びたい気持ち)が充満していた。その証しには意識して足音に気をくばり、静かに書棚周りを一巡した。挙句、雑誌や新聞コーナーにさえにも足を止めず、早々に退館した。読書欲がまったくわかなかったせいである。もとより、冷やかしにもならない体たらくぶりだった。確かに、私には子どものころよりこんにちに至るまで、読書欲や読書歴はまったくない。きのうの私は、この悪癖を今さらながらにあらためて、確認しただけだったのである。
 館内を出ると、暖かい陽射しがふりそそいでいた。私は気分をととのえて、普段の買い物コースをめぐった。たちまち、後ろめたい気分は正常へ戻った。もはや私は、買い物で気分をほぐすだけの「生きもの」になり変わっているのだ! と、自覚した。
 このところの私は、三度の食事と間断なく間食をむさぼる以外、何もかもが面倒くさくなっている。本音を言えば、生きること自体がとてつもなく面倒くさくなっている。しかしこのことは、妻の前では禁句である。なぜなら、体を傷めている妻は、ありったけの思いでわが年金にすがっている。その証しには、「パパ。これは体にとてもいいのよ!」と言っては、わが長生きのためのレシピの推奨に大わらわである。「旨くもないないものが、体にいいはずはないと、私にはわかっちゃいる」。しかし、わが唯一の手っ取り早い妻へのいたわりとすれば、無下にはできない。
 面倒くささは、断捨離をともなう終活である。とりわけその筆頭は、もはや短くかぎりあるとはいえ、まだ残る命の営みである。用意周到に構えては、こんなケチくさい文章はまったく書けない。恥も外聞もいとわない、書き殴りの妙と言えそうである。確かに、書き殴りには想定外の本音がちらついている。殴り書きに加えて走り書きのため夜明けの朝日は、いまだにまったくの暗闇の中にうずくまっている。