電話で綴った愛の小説

電話で綴った愛の小説

倉 坪 智 博
 「今晩わ、大沢久美子でーす。一昨日送りましたファックスの訂正もの、いかがでした?」
 夕食を終えて寛ぐころに電話が入った。小さな出版社を営む社長さんからである。その声を聞くのはもう数え切れない回数になっていた。少女のように軽やかで気品のただよう声に、まだ見ぬ姿を思いつつ、その夜も私の心は弾んでいた。
 「いやぁ、大助かりです。どうも女性の言葉使いがうまく出せなくて困ってたんです。もう一回書き直して送ってもいいでしょうか……」
声もつい上づりがち、まるで愛の手解きを受ける少年の気分である。傍らの女房殿の眼が険しくなるのも無理はない。
 こんな夢心地の中で自費出版『ユーデットの夏』は楽しく出来上がった。
 国語教師という職業柄、古典なぞのお堅い研究物を書いたりした自分が、そぞろ神にでも誘われたように恋愛小説を書いてみたくなったのは数年前になる。読む側に立つ者が、一度は書く側の喜びを味わいたいという戯心の為せるわざだった。
 しかし恋愛ものとはいえある種の構えはあった。永らく教師をしてきて、成長期にある高校生と向き合った時代を総括したい気持ちがどこかに働いていた。受験、恋愛、自殺など洪水の前に立つ若者たちの叫び、とりわけ七十年安保の学園紛争に向き合って、そこを通過して現在を生きる者たちを描くことが、自分の使命のように思えた。学校現場という狭義を越えて社会人として生きる群像を見つめる、そしてそのことに自分がどう関わったかという確認をせねばと思っていた。
 いうところの自分史を書くことなのだが、その思念を虚構化して一編の小説にしてみたいという欲張った考えがあった。
 とまあ、大見得を切ってはみたものの作品の稚拙は否みようもない。大手新聞社の文学賞では二次予選がやっと、他社では佳作程度がもらえた出来栄えでは、出版するなど恥の上塗りもいいところである。そう思って尻込みする私に定年退職の日が迫っていた。そのとき、頃を見測るように同僚たちから〃定年退職と出版記念パーテイをやりますから〃と肝煎りのキャッチ・フレーズで、どんと背中を押されてしまった。そうだね、と曖昧に返事したのが運のつきで、記念会を退職後の三ヵ月めと刻まれて、後には引けない船出になった。
 それ以後は退職前の繁忙の中で、原稿の選別や整理にかかるかたわら出版社探しがはじまった。代金は退職金を当てればいいが、さりとて安価に越したことはない。明朗会計で勝手が聞いてもらえること、これがポイントだった。新聞社、中堅出版には多少縁があったが、それぞれに思惑が重なってはっきりせず、高価さも伴って見送りにした。処女出版ともなれば、たとえ表紙一枚でもおざなりにしたくなかったからだ。
 ハードカバーの色や字形、紙質、扉のカット絵、カバーには自らの水彩画を載せたい、などなど。
 さらにこれは極めて身勝手な要望だが、校正時には文章の手直しを納得がいくまでさせてほしい。
 こんな要望を受け入れてくれたのが現代文藝社さんだった。女性の快い声で、「すべてオーケーです。すぐに見本と明細を送ります」と、翌夕に速達小包で見本と手書きの明細書が送られてきた。その丹念に書かれた手紙を読むうちに強い信頼感が湧いてきた。ただ変な言い方になるが、小規模で責任者が女性だという点が不安であった。ところが、このことが出版過程において最良の結果をもたらしてくれたのは望外の僥倖だった。
 女性の生きざまを描く、いわば女性様式の小説を書くことは、実はかなり手強いことだった。
 校正を重ねる中で何回となく久美子さんの口から悲痛な叫びが洩らされた。愛される女の気持ちはそうじゃないわ……私は挙行の中を彷徨しながら女たちが放とうとする言葉を探した。二人の行為は電話・ファックス・手紙で繰り返され、作品が出来上がるまで続いた。私の優柔さと彼女の出過ぎは人から非難されるだろう。しかし私には物を造り出すときの情熱の行為のように思えた。
 上梓を終えパーテイも終わって一息ついたところで、友人のTVプロデューサーを交えて久美子さんを囲む宴を持った。初めて対面する憧れの人は、お酒と「火曜サスペンス」が好きな予想通りの、魅惑の人だった。
 秋夜一刻、明るくて可愛い笑い声を聞きながら、私は至福の時間をじっくりと味わっていた。(『ユーデットの夏』を現代文藝社より出版)
自費出版ジャーナルに掲載