十一月二十日(土曜日)、季節は初冬から中冬へめぐる。この秋は悪天候に見舞われて、胸のすく秋晴れは少なく、私はせっかくの好季節にあって消化不良をおぼえていた。ところが、カレンダーに立冬(十一月七日・日曜日)と記されると、後れて秋晴れみたいな好天気が訪れている。寒がり屋の私にとってこの一番の恩恵すなわち幸運は、まったく冬入りらしくないことである。実際にも、ちっとも寒気を感じない日が続いている。この間、ときたま地球の揺れに身を竦(すく)めた。しかし大過なく過ぎて、胸のすく天恵にありついている。
確かに、天災は忘れたころにやってくる。だから、この成句には常にびくびくしている。自然界の営みは恩恵ばかりではあり得ず、いや人間界は日々、自然界のもたらす恐怖に晒されている。そのためか立冬以来の穏便な自然界の恵みにたいし、ことさらありがたみが身に沁みている。この先の命運は天まかせではあるけれど、立冬からきのうまでの天恵は、まさしく胸のすく天上の粋(いき)なはからいである。
きのうの私は、いつもの循環バスに乗って、大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。車内はやけに明るかった。(なぜかな?)と、思った。すぐに、答えにありついた。過ぎ行く窓外には、次々に真っ黄色に染まった銀杏(イチョウ)が映えていた。イチョウにふりそそぐ陽光の照り返しが、車窓を通して車内を明るくしていたのである。(そうか)、老い耄(ぼ)れのわが気分は和んだ。
このところの好天気は、重たいわが図体(ずうたい)を軽々と道路の掃除へ誘い込んでいる。私は黙然と整然とした手捌きで、道路に敷きしめる落ち葉を鏡面のごとくに清めてゆく。ところが、清めたあとには間髪を容(い)れず、山から枯葉が音もなくひらひらと舞い落ちてくる。憎たらしいと思えば、確かにかぎりなく憎たらしいしわざである。しかしながら私は泰然としてそれにも、すばやく箒を揮(ふる)っている。ばかじゃなかろか! このときの私は、自然界のおりなす営みに腹を立てることなく、逆に胸のすく和みにありついている。
ときには枯れ落ちた葉っぱを指先で拾い上げてみる。落ち葉は文字どおりからからに枯れて、風船みたいな手触りである。まさしく、潔(いさぎよ)い臨終の姿である。できればわが最期も、この姿に肖(あやか)りたいと思う。
長い夜にあっては未明、すなわち夜明け前である(5:16)。冬防寒重装備に覆われたわが身体は汗ばむほどである。夜が明けて日が昇れば、きょうもまた中冬の陽射しが満々と地上にふりそそぐであろう。このところの私は、かぎりなく天恵に酔いしれている。だけど、この先へ長く続くことのないことぐらいは、年の功とは言えないけれど、知り過ぎている。確かに、制限時間付きの天恵だから、素直に酔いしれたいものである。身体を脅かす地震だけは、真っ平御免こうむりたいものである。なぜなら地震は、好季節にあって最も様にならない難物である。