悪夢だけが旺盛

 長い夜にあって、就寝から目覚めにいたるまで、夢見に晒され続けていた。もちろん、年老いて見る夢は、子どものころに見ていた夢とは、まったく異質のものである。夢見には目覚めて気分の良いものと、悪いものとに大別される。あるいは、みずからの人生行路において、できたら望みを叶えたいと託す夢と、精神状態を冒され錯乱状態に陥るため、できたら見たくない夢とに大別される。前者を良夢とすれば、後者は悪夢である。私の夢見は、もはや悪夢ばかりである。
 子ども心を真似て、できたらと望む夢見は、「ピンピンコロリ」のみである。ところがこれとて、とうてい正夢(まさゆめ)にはありつけそうにない。挙句、就寝中の夢見は、まったく御免こうむりたいものである。
 阪神タイガースは、宿敵・読売ジャイアンツに負けた。しかしこの先、リベンジを果たす夢を見るには、それまでのわが命がもたない。だから夢見はもうすべて、打ち止めを願っている。夢見のない人生、いや夢見をことごとく捨てたい人生、もはや生きる屍(しかばね)の証しである。
 こんなことを書くために、パソコンを起ち上げたのではない。継続は力とはなり得ず、ただただ恨(うら)めしいかぎりである。今や、ズル休みこそ、「百薬の長」になりかけている。もちろん、望まない薬剤である。袋小路に嵌(は)まった状態で、約十分間の殴り書きである。初冬の夜明けは、いまだに暗闇の中にある。