「晩秋、賛歌」

 私は目覚めると起き出してきて、執筆時間に急かされて、成り行き的かつ走り書きで文章を書いている。このことは自認する悪癖、すなわち恥晒しの悪習である。この禍(わざわい)は、覿面(てきめん)に文章に現れる。おのずから、代り映えのしない似たり寄ったりの文章となる。このことでは、常に忸怩(じくじ)たる思いに苛(さいな)まれている。こんな悪の自意識があるにもかかわらずこれまで、この習慣を改めることはできずにきた。挙句、わが意志薄弱の証しの一つとなっている。もとより、こんな様にならない文章は、御免こうむりたいものである。
 このところの文章には、多く晩秋ということばを書き連ねている。直近の文章には表題に『惜別、晩秋』と、記した。文字どおり過ぎ行く晩秋を惜しんで、書かずにはおれなかったからである。なぜならこのところの晩秋の空は、わが思いに逆らうことなく日々、胸のすく好天気を恵んでいる。おっちょこちょい、いや馬鹿げていると言おうか、常々私には憂鬱気分がつきまとっている。ところが、このところの晩秋の空は、かぎりなくわが憂鬱気分を払ってくれている。この恩恵に応えて私は、文章のなかにあからさまに「晩秋を礼賛」を連ねてきたのである。確かに、胸のすく好天気は、晩秋の恵みと言えるものだった。言うなればそれに応える、わずかな恩返しの発露である。
 ところがきょう(十一月六日・土曜日)は、カレンダーの上では、初秋、中秋、晩秋と季節を替えてきた「秋の最終日」である。過ぎ行く秋が名残惜しくて私は、成り行き的にこんな文章を書いている。カレンダーの明日(十一月七日・日曜日)には、「立冬」の添え書きがある。現在は、ようやく白み始めた夜明け前にある。たぶん、しんがりの晩秋の空は、きょうもまた天高い秋晴れ、いや胸のすく日本晴れを恵むであろう。やはり、「惜別、晩秋」、つのるばかりである。
 似たり寄ったりではなく、明らかに同一文章に成り下がってしまった。それでも、わが胸はさわやかである。もとより、晩秋の好天気がもたらしている好い気分のおかげである。立冬! かなり恨めしい季節替わりである。この先は、たまの「小春日和」にあって、晩秋の気分に浸るしかすべはない。成り行き文の表題は、わが意を尽くせず、ありきたりに「晩秋、賛歌」でいいだろう。