十一月五日(金曜日)、目覚めてみると、すでに夜が明けていた。長い夜にあって、久方ぶりに二度寝にありつけていた。このことでは快眠をむさぼり、目覚めの気分はすこぶる付きの良好状態である。せっかくのこの気分にケチをつけているのは、執筆時間の切迫に基づく焦燥感である。挙句、防ぎようなく、書き殴りを強いられている。小ネタさえ浮かばず、数分間の書き殴りを強いられて、結文となりそうである。それでも快眠を得て、まったく悔いはない。もちろん、寝坊助だったと、嘆きたくはない。
さて、私には時々、意図的に小学生気分にさかのぼる癖がある。それは人生行路において、小学生時代が最も無碍(むげ)の純粋な心をたずさえていたと、自認しているからである。太平洋戦争後からまもないころにあって、さらには片田舎育ちの私には幼稚園自体が無く、小学一年生(昭和二十二年・1947年)が就学の始まりだった。おのずから純粋無垢の心情をたずさえて、真実一路の人生行路を歩み出していた。
こんな気分に立ち返り、きのうの私は、小学生さながらの幼稚なことを自問した。(人間界にたいし、自然界がもたらす最高かつ最良の恩恵は、何んであろうか?)。たちまちそれは、「太陽」、と心中の答案用紙に書いた。このときの私は、茶の間のソファーにもたれて、窓ガラスから差し込む太陽の恵みをいっぱい心身に享(う)けて、和んで日向ぼっこをしていたのである。そしてそれは、快眠をはるかに超える快感を恵んだ。すると、太陽にたいし素直に畏敬をおぼえ、かつ自然崇拝の心を宿した。ときおり、陽射しが翳(かげ)ると、たちまち寒気をおぼえた。それはそれで恨みっこなしの、まさしく太陽の威光でもあった。
このところの私は、まさしく太陽の威光に酔いしれている。晩秋の夜明けは、きょうもまたのどかな朝ぼらけである。日が昇れば、全天候型の秋晴れとなろう。私は淡く染まる大空模様を心おきなく眺めている。いやもう、晩秋の陽射しが暑さを帯びない、心地良いカンカン照りを始めている。約三十分間の殴り書きを終えて、「太陽様様」の気分は、横溢(おういつ)するばかりである。