晩秋の朝夕の実体験

 十一月二日(火曜日)、幸いなるかな! 長い夜は、夜明けの時のわが感覚を狂わしている。デジタル時刻は5:55なのに窓の外はまだ暗く、急かされる焦燥感はない。しかしながら残念なのは文章を書く気分が殺がれ、きのうに続いてズル休みを決め込んでいた。
 ところが、パソコンを起ち上げてしまった。だから、何かを書こうと思うと、季節に応じた一つの成句が浮かんだ。確かに、このところ日々、夕暮れ時に体験するピッタシカンカンの成句である。もとよりだれもが知り過ぎているありふれた成句だけれど、ズル休みを免れるために電子辞書にすがった。秋の夕暮れ、なかんずく晩秋にあっては、毎日体験している成句である。確かに、夕暮れ時にあって私は、先人の知恵に感きわまりない思いをつのらせている。さらには子どものころにあって、このことを何度も実体験したことには、感謝尽きないものがある。そして、今となってはこの実体験に、感謝するばかりである。おそらく、現代の未体験の子どもたちには、案外難しい成句であろう。おのずから、「百聞は一見に如かず」という、成句が追い打ちをかけている。
 【秋の日は釣瓶落とし】使い方:井戸を滑り落ちる釣瓶のように、秋の日は急速に暮れるということ。
 暮れかかる夕空を見上げ、まさに「秋の日は釣瓶落とし」とつぶやく。「釣瓶」は水を汲むために、竿や縄の先につけて井戸の中に下ろす桶のこと。井戸から上げるときはゆっくりだが、空(から)の釣瓶は一気に落ちる。まさしく子どものころに、暗い井戸の底を眺めて、怖々(こわごわ)と実体験したけれど、いまでは懐かしい光景であり、それを捩(もじ)る成句である。いや、ほのぼの感あふれる詩的光景でもある。それゆえに現代の子どもたちにも、一度くらいは体験してほしいと願う、秋の夕暮れ時を映す成句である。
 これに対(つい)を成すとも思える、わが咄嗟の造語を浮かべた。そして、「明け泥(なず)む秋の夜明け」と、つぶやいている。夜明けてみると大空は、朝日の見えない今にも雨が降りそうなたたずまいにある。やがては短い秋の陽射しがふりそそぎ、またたく間に夕日が沈むこと請け合いである。「女心と秋の空」。確かに、晩秋の空は、移ろいやすい。つれて、わが気分もそうである。