寝起きの嘆き文

 十月三十日(土曜日)、仕方なく、書くまでもないことを書き始めている。正直、苦しい胸の内にある。すっかり、心中に怠け心が巣作りしている。怠け心ゆえ、悶絶まではいかないまでも、苦悶が張り付いている。そしてそれは払いのけようにも払えない、わが生来の錆(さび)である。もちろん、こんなことを書くために起き出し、なおパソコンを起ち上げたのではない。もとより、きのうに続いてズル休みをすべきだった。
 このところの私は、文章の継続にたいし、風前の灯火(ともしび)の点滅に見舞われている。いや、点いたり消えたりではなく、消えたままになりそうである。たったこれだけのことでも決断が下せず、挙句、悶々とした気分に苛(さいな)まれている。私には虫けらの執念や根性さえなく、人間の体(てい)をなさない弱虫である。換言すれば私は、気力喪失状態にある。文章が書けないのは、その一つの確かな証しである。これに書けない口実と弁解を加えればそれは、能無き者の長年の書き疲れゆえである。命にあって意欲が尽(す)がれば、もじどおり尽きておしまいである。これに抗(あらが)うことばには、鼓舞とか発奮とかの自己奮励などがある。もちろん絶えず、私とてそれらを試みている。ところが、車のエンジンの空吹かしのごとくに、そのつど無駄な抵抗にある。
 きょうはこんな文章を書いて、突然のエンジンの駆動を待っている。このことでは、一縷(いちる)の望みをかけた文章である。同時に、かたじけなく思う文章でもある。街中では当選の目当ての無い候補者が一人立ちで、大声を張り上げている。街行く人はだれひとり歩み寄らず、そっけなく素通りしている。人生だれしも、生きることは常に厄介である。夜明けの明かりは見えず、いまだ薄闇である(5:28)。
 こんな身も蓋もない文章であっても、いくらか鼓舞や発奮の足しになれば、勿怪(もっけ)の幸いである。ダボハゼのごとく、私はそれを願っている。