十月二十六日(火曜日)、寝起きにあって用意周到に、両耳に集音機を嵌(は)めた。開けっぴろげの雨戸を通して窓ガラスに映る外界のたたずまいは、いまだ真っ暗で真夜中のたたずまいにある。デジタル時刻に目玉を向けると、4:36と刻まれている。すでにわが身体は、冬防寒重装備ゆえに寒気はあまり感じない。いや、寒気自体が緩んでいる。いつもであればこんな時間にあっては、集音機は用無しで嵌めていない。ところがどうしたことか、もはや習性のごとく嵌めた。もう寝床へとんぼ返りはしないぞ! という、固い意思の表れなのかもしれない。そうであればこの時間から、わがきょう一日の始動となる。
夜の静寂(しじま)にあっては、パソコンのキー以外に、音はしないはずである。しかし、なんだか海岸で聞く、遠くのさざ波みたいな音が聞こえる。しばし息をのんで、聞く耳を立てた。すると、窓を打つ強さまではない、小川のせせらぎほどの雨の音である。私は、(きょうもまた雨か……)と、嘆息した。好季節すなわち、晩秋にあって地球の気象状態は、いったいどうしたのであろうか。せっかくの好季節は、雨にたたられっぱなしである。
季節外れの雨の多さが、一つでも人の世に恩恵をもたらしているものがあるだろうか? と、自問を試みた。思いつかない問いにたいし、一つだけこじつけの答えをみつけた。それは季節外れの雨の多さが、新型コロナウイルスの感染力を殺いだのか。もちろん、やけのやんぱち気分のわが下種の勘繰りにすぎない。確かな科学(データ)に基づいた、専門家集団の見解が待たれるところである。幸いにも、日に日に新型コロナウイルスの感染者数は激減状態を示している。それにつれて専門家集団のお出ましと声もまた、すっかり鳴りを潜めている。なんだかの声(見解)がほしいところである。確かに、いまだ終結宣言は言えないのであろう。だとしたら当ての外れに戸惑い、しばし口を噤(つぐ)まれているのであろうかと、勘繰りたくなる。
感染力の衰えは、もちろん好都合である。しかし、いくらかの当て外れは、専門家集団にとってはかなりの「面(つら)汚(よご)し」なのかもしれない。やはり、風交じりの雨の夜明けである。こんな身も蓋もない書き殴り文には、確かな表題のつけようはない。