十月二十三日(土曜日)、現在は月末日(十月三十一日・日曜日)に投開票日をひかえて、衆議院議員選挙の選挙戦のさ中にある。期日前選挙はすでに始まっている。すなわち、参議院議員選挙と二分する、大事な国政選挙の選挙戦の真っ最中である。ところが、わが大規模住宅地にあっても、選挙カーはまったくめぐって来ない。このことでは、閑古鳥が鳴くような選挙戦さながらである。住宅地が少子高齢化、さらには過疎化傾向を深める証しとして、ほとほと寂しいかぎりである。
選挙戦にちなんで言えば世帯の有権者は、一人ないし二人くらいの細々である。稀に見る大家族であっても当てにする有権者は、昼間は街中の仕事へ出向いて留守である。選挙戦は真剣勝負のかたわら、一過性の華々しい国民のお祭りでもある。お祭りにあってお囃子太鼓とも思えるのは、マイクで轟音をがなり立て、入れ代わり立ち代わりやって来る選挙カー風景である。確かに、やかましいという人もいるから選挙カーの巡回は、半面では必要悪と言えるのかもしれない。しかしながら一方、選挙戦にあってはなくてならない風物詩とも言えるものでもある。ところが、魚のいないところに餌を撒いたり、釣り針を垂らす必要はなくなったのであろう。「時は金なり」である。確かに、限られた選挙戦にあって候補者は、コストパフォーマンス(効率)の悪い選挙戦、すなわち時間の無駄遣いは必然的に避けなければならないのであろう。それでもやはり、有権者にすれば選挙戦の賑わしがないのは寂しいかぎりである。
はるかに遠い子どものころの選挙戦では、選挙権はなくても子どもなりにとても楽しかった。当時の選挙戦にあっては、文字どおり入れ代わり立ち代わり絶えず、村中をいくつかの選挙カーがめぐっていた。それらに出合うと子どもたちは道端に並んで、選挙カーの人たちと互いに、身を乗り出して手を振り合っていた。今でも、キラキラと心中に残る懐かしい光景である。選挙戦にはやはり、こんな光景がほしいところである。老いてもなお有権者なのに、なんだか見捨てられたようで、寂しくかつつまらない選挙戦である。限られた短い期間だから普段の訪問介護車や、救急車のサイレンだけではなく、選挙カーの駆けめぐりがほしい選挙戦である。選挙カーには、なくてはならないお祭りのお囃子の太鼓の役割がある。そうは思っても確かに、票田は草ぼうぼうである。