それでもあきらめきれない 大手出版社で販売ルートに
松田源治
「原稿の持ち込みはご遠慮頂いております……。自費出版をお薦めします……」
これは大手出版社に出版の依頼を打診した時の丁重なるお断りの返事です。覚悟はしていたものの、一通、二通、三通……と同じ文面の返事が届くと、ついには笑ってしまった。でも一通だけ、編集長自身が書いたかどうかは別にして、「大変興味のある題材だと思います……松田さんのご活躍を期待しております」には、変に勇気づけられたというか、ちょっぴりホッとした気分にさせられたことを思い出します。 本の執筆をしていて痛感したこと。それは言葉が如何に大切かということ、言葉を文字にするには、勇気が要るということ、責任が重くのしかかってくるということです。言葉は使う人・使い方によって、優しくなったりきつくなったり、説得力があったり無かったり、ときには相手を傷つけてしまったり、もちろん読む人にもよるのでしょうが、とにかく言葉を文字化するということは大変な重労働だということです。
もう一つ、今度は出版をしてみて、というより、私は出版をした本を多くの人に購読されたいと願っているわけですが、本の購読を勧めるにあたって痛感したこと。それは、本を読む人、読書をする人があまりにも少ないということです。もちろん、字が読めないということではなく、世の中便利に成りすぎたせいか、はたまた忙しすぎるせいか、とにかく「本」というだけで拒否反応を示す人が多いのです。しかし、世間が云う「活字離れ」でもなさそうです。インターネットやゲームソフト関連のマニュアル本・攻略本の類や有名タレントの本など、あるいは、漫画や雑誌は良く読まれている様子だからです。
さらにもう一つ。サラリーマンの方々です。著書「頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ」でも触れましたが、施主、いわゆる家族の大黒柱であるお父さん方がマイホームには関心があっても、その建築実務に対する関心が薄いということ。必要にせまられてビジネス書や資格試験書などを買い漁っている節がみられますが、人生で最も高価な買物となるだろうマイホームの建築・購入は、施主の人生最大のビジネスとも言えるはずなのに、その意識が薄いのです。
私の著書『頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ』は、名の知れない小さな出版社「現代文藝社」で出版しました。出版費用は大手出版社よりずいぶん安いのは良かったが、マイホーム建築の実務に積極的な関心を持ってもらうためには、私の本の出版もやはり名の通っている大手出版社の方が良かったのではないか、販売ルートを利用させてもらった方がよかったのではないかという思いを捨て切れずにいるのです。もちろん、それが叶わぬから現代文藝社とめぐり会うことが出来たし、幸い、わが著書は、「住宅メーカーや工務店などの元請業者主導の住宅建築を、施主の満足を第一に考えた現場第一・施主主導の住宅建築に変えよう。建築業界を変えよう」という、私と同じ考えを持つ建築士たちの協力やインターネットを通じてのご注文もボチボチといただいておりますから、個人販売のわりには順調なすべり出しといって良いし、読
者には満足していただいていると思っています。
そこで、少々の悪たれを言わせて頂きます。
確かアメリカの作家で数十社もの出版社に断られ続けた本が大ベストセラーになったという話を聞いたことがありますが、もしかしたら自費出版の世界にもとてつもない著書が埋もれているのではないでしょうか。素人だから、有名人でないからというだけで断られ続けた原稿がたくさんあって、自費出版はしたものの第三者の都合で著者の自己満足で終わらざるを得なかった著書がたくさんあるのではないでしょうか。
これは、私の原稿が邪見にされたからいうのではなく、原稿を読んでもいないくせに、自費出版だけは積極的に勧めてくる大手出版社をみると、本をこよなく愛しているはずの、あるいは世のため人のため、自由と正義のため、情報開示の先駆者として名をはせて来ただろう出版社が、自費出版の著者を末端の顧客と勘違いしている風でガッカリしているのです。つまり、自費出版された著書の中には、多くの人に愛されるだろう、勇気や希望、ゆとりや楽しみを与えるだろう大ベストセラーに成り得るものが潜んでいるのではなだろうかということなのです。せっかくの大作が出版社の偏見によって潰されてまったものがあるのではないだろうかと、身の程知らずに考えてしまうのです。
名前は覚えていませんが、あるテレビ番組で、小学校のにわか教師になったある作家が、子供たちに作文を書かせるとき、「自分の言葉で書くから良いんだ。みんなに理解されようとか、かっこ良くとか、きれいに書こうと思ってはダメだ。普段話している自分の言葉で、思ったことをそのまま表現すれば良いんだ」という風なことを言ってたのを思い出します。世間体を気にし過ぎている大人や、マニュアル人間の方々がどう思うかは分かりませんが、あの番組を見た人の多くは、ずいぶんとホッとさせられたのではないでしょうか。
ホッとさせられたと言えば、私は四、五年前から司馬遼太郎氏の本を良く読むようになって、それを読んでいると、なぜかホッとさせられるのです。司馬氏の言い回しには戸惑いもしますが、何というか、とても自由な気分になるのです。司馬氏も初めはマニュアル的なものを意識していたのだろう。ある人から「お任せします。自由に書いて下さい。編集はしません」というようなことを言われて、本格的に執筆する気になったとのことである。それもどの著書に書いてあったか思い出せませんが、司馬氏は、「もし、それが無かったら司馬遼太郎は無かったのかもしれない」とも言っています。
テレビ番組の中の作文の原稿用紙を前にした子供たちは、にわか先生の言葉を聞いたとたんから、がぜん活き活きとしだし、にわか先生から合格をもらった子供たちの笑顔に、「もしかしたら、この中から第二の司馬遼太郎が誕生するかもしれない」なんてことを私は思ったりもしたのです。
よく本を読む人が少なく成っているにも関わらず、自費出版する人が増えていると聞きすが、思うにそれは、本を読む人が少なくなったというより、どことなく画一化された本ばかりが多くなって、個性のある自由な本、読みたい本が少ないから。もっと言ってしまえば、出版社が良書発見などは眼中になく、ベストセラーの発掘よりも有名タレントなどの週刊誌的著書をエサに、自費出版社の獲得合戦を行っているからに過ぎないのではないのか。つまり私は、一社ぐらい「お話を聞かせて下さい」があって欲しかったと思っているのです。
現代文藝社の大沢氏との出会いは、同社のある市内に住む私の友人から送られてきた自費出版の広告チラシがきっかけでした。そのチラシに載っていた出版費用の価格表は、それまで見たどの出版社よりも安かったので、「でも、どこかにカラクリがあるに違いない」と思いつつ電話してみると、これが全く欲のない明解さで、「近くの印刷屋さんに直接持ち込めばもっと安くなるはずよ」だったのです。
建築業界を変えたいという思いの一心で、出版原稿に三年以上も掛かってしまったことや、その内容について、五分か十分話しただろうか、氏は「私は、実務書は手掛けたことはありませんが、それは絶対出すべきだと思うわ」である。氏は、電話や手紙のやり取りを主体にした仕事の方法をとっており、クライアントとは成るべく会わないようにしているということだったが、私たちは次の日には会っていたのです。私は会う約束の電話を切った時点で、既に出版の依頼をするつもりに成っていた。初めてながら、ちょっぴり人見知りの私は、会った瞬間から氏とは初めてではない気がした。氏はいきなり本づくりの具体的な話をしだした。そう、氏も依頼されるつもりで来ていたようでした。もちろん、まだ正式な契約はしなかった。なぜなら、いくら安いとはいえ、私には大金であったからです。しかし、互いは既に契約したつもりになっていた。私の住宅建築への思いと氏の本づくりの思いとが、ずいぶん合致するところがあることを知り、互いに空腹も忘れて話した。
正直、しばらくは次の本など書けそうにもありません。この出逢いが冒頭の丁重なお断りのお蔭だったことを思うと、なんとも複雑な思いですが、この出逢いは大切にして行きたいと思っています。
ズバリ、私の当面の目標は、初版本を完売させること。第二刷、第三刷……と増刷し、より多くの人に読んでいただくことです。なぜなら、一般の市民・施主が変わらなければ建築業界は変わらないと思っているし、、著書「頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ」を読んだ施主、心ある建築業者・職人の誰もが得するだろう、満足できるだろうと思っているからです。(『頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ』を現代文藝社より刊 自費出版ジャーナルより転載)
これは大手出版社に出版の依頼を打診した時の丁重なるお断りの返事です。覚悟はしていたものの、一通、二通、三通……と同じ文面の返事が届くと、ついには笑ってしまった。でも一通だけ、編集長自身が書いたかどうかは別にして、「大変興味のある題材だと思います……松田さんのご活躍を期待しております」には、変に勇気づけられたというか、ちょっぴりホッとした気分にさせられたことを思い出します。 本の執筆をしていて痛感したこと。それは言葉が如何に大切かということ、言葉を文字にするには、勇気が要るということ、責任が重くのしかかってくるということです。言葉は使う人・使い方によって、優しくなったりきつくなったり、説得力があったり無かったり、ときには相手を傷つけてしまったり、もちろん読む人にもよるのでしょうが、とにかく言葉を文字化するということは大変な重労働だということです。
もう一つ、今度は出版をしてみて、というより、私は出版をした本を多くの人に購読されたいと願っているわけですが、本の購読を勧めるにあたって痛感したこと。それは、本を読む人、読書をする人があまりにも少ないということです。もちろん、字が読めないということではなく、世の中便利に成りすぎたせいか、はたまた忙しすぎるせいか、とにかく「本」というだけで拒否反応を示す人が多いのです。しかし、世間が云う「活字離れ」でもなさそうです。インターネットやゲームソフト関連のマニュアル本・攻略本の類や有名タレントの本など、あるいは、漫画や雑誌は良く読まれている様子だからです。
さらにもう一つ。サラリーマンの方々です。著書「頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ」でも触れましたが、施主、いわゆる家族の大黒柱であるお父さん方がマイホームには関心があっても、その建築実務に対する関心が薄いということ。必要にせまられてビジネス書や資格試験書などを買い漁っている節がみられますが、人生で最も高価な買物となるだろうマイホームの建築・購入は、施主の人生最大のビジネスとも言えるはずなのに、その意識が薄いのです。
私の著書『頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ』は、名の知れない小さな出版社「現代文藝社」で出版しました。出版費用は大手出版社よりずいぶん安いのは良かったが、マイホーム建築の実務に積極的な関心を持ってもらうためには、私の本の出版もやはり名の通っている大手出版社の方が良かったのではないか、販売ルートを利用させてもらった方がよかったのではないかという思いを捨て切れずにいるのです。もちろん、それが叶わぬから現代文藝社とめぐり会うことが出来たし、幸い、わが著書は、「住宅メーカーや工務店などの元請業者主導の住宅建築を、施主の満足を第一に考えた現場第一・施主主導の住宅建築に変えよう。建築業界を変えよう」という、私と同じ考えを持つ建築士たちの協力やインターネットを通じてのご注文もボチボチといただいておりますから、個人販売のわりには順調なすべり出しといって良いし、読
者には満足していただいていると思っています。
そこで、少々の悪たれを言わせて頂きます。
確かアメリカの作家で数十社もの出版社に断られ続けた本が大ベストセラーになったという話を聞いたことがありますが、もしかしたら自費出版の世界にもとてつもない著書が埋もれているのではないでしょうか。素人だから、有名人でないからというだけで断られ続けた原稿がたくさんあって、自費出版はしたものの第三者の都合で著者の自己満足で終わらざるを得なかった著書がたくさんあるのではないでしょうか。
これは、私の原稿が邪見にされたからいうのではなく、原稿を読んでもいないくせに、自費出版だけは積極的に勧めてくる大手出版社をみると、本をこよなく愛しているはずの、あるいは世のため人のため、自由と正義のため、情報開示の先駆者として名をはせて来ただろう出版社が、自費出版の著者を末端の顧客と勘違いしている風でガッカリしているのです。つまり、自費出版された著書の中には、多くの人に愛されるだろう、勇気や希望、ゆとりや楽しみを与えるだろう大ベストセラーに成り得るものが潜んでいるのではなだろうかということなのです。せっかくの大作が出版社の偏見によって潰されてまったものがあるのではないだろうかと、身の程知らずに考えてしまうのです。
名前は覚えていませんが、あるテレビ番組で、小学校のにわか教師になったある作家が、子供たちに作文を書かせるとき、「自分の言葉で書くから良いんだ。みんなに理解されようとか、かっこ良くとか、きれいに書こうと思ってはダメだ。普段話している自分の言葉で、思ったことをそのまま表現すれば良いんだ」という風なことを言ってたのを思い出します。世間体を気にし過ぎている大人や、マニュアル人間の方々がどう思うかは分かりませんが、あの番組を見た人の多くは、ずいぶんとホッとさせられたのではないでしょうか。
ホッとさせられたと言えば、私は四、五年前から司馬遼太郎氏の本を良く読むようになって、それを読んでいると、なぜかホッとさせられるのです。司馬氏の言い回しには戸惑いもしますが、何というか、とても自由な気分になるのです。司馬氏も初めはマニュアル的なものを意識していたのだろう。ある人から「お任せします。自由に書いて下さい。編集はしません」というようなことを言われて、本格的に執筆する気になったとのことである。それもどの著書に書いてあったか思い出せませんが、司馬氏は、「もし、それが無かったら司馬遼太郎は無かったのかもしれない」とも言っています。
テレビ番組の中の作文の原稿用紙を前にした子供たちは、にわか先生の言葉を聞いたとたんから、がぜん活き活きとしだし、にわか先生から合格をもらった子供たちの笑顔に、「もしかしたら、この中から第二の司馬遼太郎が誕生するかもしれない」なんてことを私は思ったりもしたのです。
よく本を読む人が少なく成っているにも関わらず、自費出版する人が増えていると聞きすが、思うにそれは、本を読む人が少なくなったというより、どことなく画一化された本ばかりが多くなって、個性のある自由な本、読みたい本が少ないから。もっと言ってしまえば、出版社が良書発見などは眼中になく、ベストセラーの発掘よりも有名タレントなどの週刊誌的著書をエサに、自費出版社の獲得合戦を行っているからに過ぎないのではないのか。つまり私は、一社ぐらい「お話を聞かせて下さい」があって欲しかったと思っているのです。
現代文藝社の大沢氏との出会いは、同社のある市内に住む私の友人から送られてきた自費出版の広告チラシがきっかけでした。そのチラシに載っていた出版費用の価格表は、それまで見たどの出版社よりも安かったので、「でも、どこかにカラクリがあるに違いない」と思いつつ電話してみると、これが全く欲のない明解さで、「近くの印刷屋さんに直接持ち込めばもっと安くなるはずよ」だったのです。
建築業界を変えたいという思いの一心で、出版原稿に三年以上も掛かってしまったことや、その内容について、五分か十分話しただろうか、氏は「私は、実務書は手掛けたことはありませんが、それは絶対出すべきだと思うわ」である。氏は、電話や手紙のやり取りを主体にした仕事の方法をとっており、クライアントとは成るべく会わないようにしているということだったが、私たちは次の日には会っていたのです。私は会う約束の電話を切った時点で、既に出版の依頼をするつもりに成っていた。初めてながら、ちょっぴり人見知りの私は、会った瞬間から氏とは初めてではない気がした。氏はいきなり本づくりの具体的な話をしだした。そう、氏も依頼されるつもりで来ていたようでした。もちろん、まだ正式な契約はしなかった。なぜなら、いくら安いとはいえ、私には大金であったからです。しかし、互いは既に契約したつもりになっていた。私の住宅建築への思いと氏の本づくりの思いとが、ずいぶん合致するところがあることを知り、互いに空腹も忘れて話した。
正直、しばらくは次の本など書けそうにもありません。この出逢いが冒頭の丁重なお断りのお蔭だったことを思うと、なんとも複雑な思いですが、この出逢いは大切にして行きたいと思っています。
ズバリ、私の当面の目標は、初版本を完売させること。第二刷、第三刷……と増刷し、より多くの人に読んでいただくことです。なぜなら、一般の市民・施主が変わらなければ建築業界は変わらないと思っているし、、著書「頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ」を読んだ施主、心ある建築業者・職人の誰もが得するだろう、満足できるだろうと思っているからです。(『頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ』を現代文藝社より刊 自費出版ジャーナルより転載)