冠の秋、実りの秋

 現在、自然界は四季にあって秋の季節である。私の場合、気候的には最も体に馴染んで快感をおぼえている。たぶん、たくさんの人たちもまた、秋を最も好まれるであろう。確かに、「天高く馬肥ゆる」秋は、凌ぎ易さに加えて文字どおり、食欲モリモリの秋でもある。食欲をそそがれることではずばり、「実りの秋」の恩恵にあずかっている。
 「冠の秋」の一つ実りの秋には、生産者および消費者共通に、喜悦が満ち溢れている。すなわち秋の季節には、みんなの悦びが充満している。四季のなかにあってこんな悦びは、おそらく秋が筆頭であろう。特に今年の秋は、台風シーズンと銘打たれているなかにあっても、小さな台風が一度だけ日本列島の限られた地方を襲っただけである。小さな被害はあったけれど、台風はおおむね大過なく過ぎ去った。そののち台風は、鳴りを潜めている。そのうえ、秋彼岸が過ぎても寒気の訪れはいまだなく、寒気はこの先へとずれ込んでいる。そして、ここ二日くらいには、秋本来の好天気が訪れている。季節は、まさしく秋快感の真っただ中にある。
 機を一にして新型コロナウイルスの感染恐怖は、かなり遠のいている。自然界はさわやかな秋をもたらしている。目下、ようやく人間界は、遅れてきたさまざまな「冠の秋」の喜悦に浸っている。恐れるのは、一語の慣用句を用いれば「好事魔多し」である。具体的には自然界および人間界共にかかわる「災いは忘れたころにやってくる」と、心すべきである。挙句、人が気を良くしてのほほんと過ごすことを警(いまし)める「油断大敵」にこそ、意を注がなければならない。
 現下の人間界で特筆すべきイベントは、選挙(衆議院議員)の季節である。ところがこちらには、冠の秋とは違っていっこうにワクワク感がない。結局、この季節にあってワクワク感をもたらすのは、自然界がさずけるさまざま恩恵である。それらのなかでピカイチは、食いしん坊の私の場合は、実りの秋がイの一番である。なかんずくそれは、新米と数々の秋の果物の出回りにありつけることである。
 実際にも私は、新型コロナウイルスにともなう行動自粛が緩和されて、買い物行が楽しくなっている。初動の蜜柑の買い物にあって私は、二キロ詰めの熊本蜜柑を買った。甘い蜜柑は、たったの250円の安さだった。これでは、ふるさとの生産者は嘆き、消費者の私は喜ぶばかりである。不断の特段のわがふるさと志向と郷愁は、かりそめの偽善だったのかもしれない。
 実りの秋にあずかっていることには、大きな台風の襲来がなかったことが、一役買っているのであろう。だからと言って、台風に「値段の折り合い」をつけて、とは言えない。私は生産者の嘆きをおもんぱかって、まるで餓鬼のように熊本蜜柑を食べ始めている。この先は、いっそうそうなるであろう。薄利多売に報いるふるさと心を露わにして、実際には安さを願う浅ましさを露わにしている。生産者と消費者の共利共生は、絵に描いた餅さながらである。十月十六日(土曜日)、雨の夜明けである。