生存のかなしさ

 十月九日(土曜日)、余震にびくびくしながら一夜を過ごした。一晩だけど、幸い余震は免れた。しかしこの先には、なおビクビクが続いて行く。人間は生きているかぎり、常に何かにつけてびくびくしている。人間の生存にからみつく業(ごう)、すなわち、むなしさ、つらさ、かなしさ、おそろしさである。
 きのう、ふるさと電話のベルが鳴った。受話器を耳にあてると、後継者の甥っ子はこう伝えた。
「お父さんは、あしたが四十九日なもんで、坊さんに来てもらって、そのあと納骨をしますから……」
「そうだね。四十九日は数えていたからわかっている。納骨もあしたするんだね。行けなくてごめんね」
 今、周囲を竹藪に囲まれ、風の音をいっそう強める野末の丘に立つ、「前田家累代の墓」が彷彿と浮かんでいる。もはや、長兄の生存にたいし、びくびくすることはない。そのため、安らぎさえおぼえている。この先は、悲しさに耐えるのみである。それでも、日々ビクビクするよりはどんなにかいい。私は、独りよがりの身勝手な性(さが)にからみつかれている。唯一、人間らしい心情は、わが生存あるかぎり長兄を慕い続ける、尽きない悲しさである。