支流は大河に吸い込まれて姿を消す。大河は海に巻き込まれて姿を失くす。浮雲は大空に抱かれて、いつの間にか姿を隠す。私にかぎらずすべての人の命と心は、川の流れや浮雲のごとくに、絶えず揺れ動いている。言わずもがなのことだけど人の場合は、心模様の揺れや動きがピタリと止まったら、即「御陀仏」である。このことからすれば絶え間ない命と心の動きは、必要悪とも言える生存の証しである。実際のところその揺れぐあいは、ほとほと厄介である。
こんどは私にかぎれば、その揺れに安寧を貪(むさぼ)ることは到底できず、これまた絶えずぐらぐらと揺れ動いている。寝床の中で、こんなことを浮かべていた。確かに、命と心すなわちわが人生には、焼きが回っているのかもしれない。それでも、幸か不幸か生存にありついている。そうであればせっかくたまわっている命であり、もっと生き長らえなければソンソン(損々)、いや大損である。自然界は絶好の秋の恵みの真っただ中にある。
わがきょう(十月六日・水曜日)の行動予定には歯医者通いがある。よりにもよって予約時間は朝の九時である。夜が明ければ、ソワソワ気分で支度行動が待ち受けている。おのずから、急かされた心理状態では文章は書けない。そのため、目覚めるままに起き出して、書いてみた。すると、様にならないこんなみすぼらしい文章になってしまった。ただ言えることは、心は揺れ動いて、私は生きている(4:43)。
ふだんはピンピンコロリを願っておきながら、歯医者へ通うことには虫が良すぎるほどに、私は自己矛盾のさ中にある。しかし、綺麗ごとだけでは生存は叶えられない。いや、人生とはどぶ川の流れみたいなものでもあり、たとえしばし澱(よど)んでも、決して流れを止めてはいけない定めにある。命と心の動きを止めたら、いやそれが止まったら、たちまちこの世とおさらばである。行き着くあの世にあってはたぶん、お釈迦様の説教(お招き)どおりの、住みよい極楽浄土などあるはずもない。確かに、命を惜しむ、歯医者通いである。だからと言って、「なさけない」とは言えない。なぜなら、歯の痛みには、命が削られる思いがある。命と心が揺れ動く、生存の証しは常に切ない。まもなく、夜が明ける。腕の脈拍は、間欠泉のごとく正常に動いている。