自費出版は癖になる?
河合佳兵衛
他人様はどうあろうと、私には自費出版をして「ああ、よかった」という単純な喜びばかりではなかった。それは随分と神経を使い、お金を遣い、日時を費して仕上げた割合に、その後の処理の問題その他のことでストレスを溜めてしまったからである。
私は今までに出版社は異なるが二度自費出版をしている。両方とも随筆の類である。
元々そんな大それた事は考えてもみず、目的もないまま何年も前から気の向くままに書いていただけである。それがある時、小さい二人の甥たちの折節をおもしろおかしく書いて、同僚に読んでもらった所、これが何人もの目に触れる事になり、意外にも大受けだった。この時私はある種快感に似た気分を味わった。それをきっかけに時々同僚たちに作品を廻し読みしてもらうようになった。
そのうち周囲から本にしてみては、と勧められるようになり、自分の足跡の一部として一冊にまとめてみるのもよいかも知れない、とその気になったのである。
平成七年七月に退職し、その年のうちに二、三の出版社から案内書を取り寄せ、大体の相場を知った。似たり寄ったりの金額であった。それから間もなく友人の紹介でM社を訪ね原稿を預けた。出版費用は他の出版社と大体同じような額である。数日後二百五十部を契約した。発行部数が少ないので一冊の単価にすると途轍もなく高額なものになり、改めて自費出版するにはお金がかかるという認識をもった。今思えば出版価格表の提示もなく、見積り価格をそのまま受け入れたに過ぎない。後から担当編集者にきくと、もっと安く上げる方法もあるという事だったが、私は一度だけと思っていたので、まあよしと自分を納得させた。自費出版とはいえ販売を目的とする出版社だけに、多少高めだったのかもわからない。私の本も是非流通に乗せ、店頭販売をするよう、何度も勧められたが、「そんな恐ろしい事を」と小心者の私は堅く断わり私家本としてもらった。
三か月程して私の初めての本「蔓茘枝」が出来上ってきた。平成八年七月である。どんなものに仕上がるかと不安がいっぱいだったが、自分でも驚く位上出来だった。
表紙の絵は旧友に描いてもらった俳画で蔓茘枝(苦瓜)の絵、とても柔らかい感じで色も忠実に出ていて、私は一冊を手にとるといつまでも見とれていた。夢のようであった。
その日からばかに忙しくなった。元の職場を中心に知っている同僚の殆んどに配り、遠くの友人たちには荷作りして手紙を添え、何度も郵便局へ運んだ。その間に電話はどんどんくるし手紙もくる。思いもよらぬ位好評であった。中学時代の恩師四人も大変喜んで下さった。何日間かろくに昼食もとれない程の忙しさであった。大勢の人に祝福され出版記念パーティを開いてもらい嬉しく私の気持ちは高揚しっ放しであった。
やがてそれも一段落すると、何も連絡をくれない人もかなりある事が気になってきた。ちゃんと届いたろうか。読んでくれたのだろうか、感想は、と折りにふれ思うようになる。しかし結局そのまま過ぎてしまった。あまり読書の習慣のない人とか、好みの本ではなかったのだと思う。誰彼かまわず配ってしまった亊を大失敗だったと反省し今もって尾を引いている。
大分たってから中学時代の同級生たちの間に噂が広がり、読みたいという人が多数出た。しかしその時はすでに残数がわずかになっていて、ほんの少しの人にしか渡す事が出来なかった。
それから二年半、その後の原稿が大分溜った頃「蔓茘枝」を読んで下さった方々から「第二弾はまだですか」と催促がくるようになった。そうなると一回だけと思っていたにも拘らず、何とかしなくてはと思い、性懲りもなく再び出版する事を考え出した。今度は前回の反省点を生かしたいと思いながら、ある雑誌の広告で現代文藝社を知り、代表者の大沢氏にお会いした。氏はご自身も作品を書いて本を出している方で、従ってこちら側の事もよく理解している方である。
お互いの一致した考えは、今の時代は書き手がやたら多く、読み手が少ない。店頭に出しても売れない時代である。ならば流通経路に乗せず安い費用で必要な部数をじっくりと、良い本を作るという事だった。前作に較べ低廉さにも魅力を感じ、より安くと一色刷りで結局二百部出版依頼した。売る売らぬは別にして定価をつけておく方がよいとの助言を受けそのようにした。題名は氏の意見を入れ最初に考えていたものを変更し「時を歩く」とした。表紙は前作と同じ旧友の俳画で日本犬の立ち姿である。しゃれた題だという人あり、平凡だ、あなたらしくないという人あり、賛否両論であった。
二回の出版で学んだが、本の題名というのは大事だと思った。販売する場合は尚更である。私の本は二冊とも私家版だったが、それにしても「蔓茘枝」は難しかったきらいがある。
「時を歩く」は平成八年五月に出来上った。校正段階で編集者の手を大分煩わせた事もあり、期間は少し余分にかかったが、価格の割にはよい仕上りである。
今度は中学時代の同級生たちを中心に送り、それなりの反響があった。
この事を機に昔の仲間たちとまた親しい付き合いが再開され、会った事もない人からも手紙をいただき、友人を介していろいろなメッセージが届いた。
さて二回の自費出版を経験した訳だが、改めてその気になれば誰にでも自分の本を作れる時代なのだとつくづくと思った。そして思いがけない人の温かみ、知りあえた心と心、またその逆も知る事になった。自分とそのまわりの小さな歴史と時代背景も残す事が出来、更に折角の労作を軽々しく配る事なく、読みたいという人にこそ喜んで差上げるようにしたいと実感した。自分の書いた拙い文章が多数の人に読まれ、ある評価をされる。怖くも有り、また意外な自分を発見する事にもなった。
あたらしくどんどん出版され、一方で消耗品として消えていく本。作る苦労を知った今、どんな本でも粗略には扱えない。
何はともあれ、二冊の本を通じて今まで全く知らなかった人との交際も始まり、疎遠になっていた昔の仲間たちにも自分の存在をアピールした亊になった。前作を読んで下さった恩師のうち三人の先生が逝去され、二冊目は不可能となったが、喜んでいただけた事はほんとうによかったと思っている。苦しみもストレスもあったが、結果としては平凡な我が人生にひと節を入れられた感じである。先ずはよかった亊にしようか。
あれからまた細々と書いてはいるが、さてどうしたものか。思えば素人が本を作るという事は並々ならぬ一大事業である。そんな大変な苦労をしてまでどうして自費出版を二回もしたのだろう。と考えながら心のどこかで三冊目を意識してペンを動かしている。
ああ、自己満足に過ぎない自費出版、何やら麻薬の香りさえ感ずるのである。(「蔓茘枝」MBC 、「時を歩く」現代文藝社より出版)
私は今までに出版社は異なるが二度自費出版をしている。両方とも随筆の類である。
元々そんな大それた事は考えてもみず、目的もないまま何年も前から気の向くままに書いていただけである。それがある時、小さい二人の甥たちの折節をおもしろおかしく書いて、同僚に読んでもらった所、これが何人もの目に触れる事になり、意外にも大受けだった。この時私はある種快感に似た気分を味わった。それをきっかけに時々同僚たちに作品を廻し読みしてもらうようになった。
そのうち周囲から本にしてみては、と勧められるようになり、自分の足跡の一部として一冊にまとめてみるのもよいかも知れない、とその気になったのである。
平成七年七月に退職し、その年のうちに二、三の出版社から案内書を取り寄せ、大体の相場を知った。似たり寄ったりの金額であった。それから間もなく友人の紹介でM社を訪ね原稿を預けた。出版費用は他の出版社と大体同じような額である。数日後二百五十部を契約した。発行部数が少ないので一冊の単価にすると途轍もなく高額なものになり、改めて自費出版するにはお金がかかるという認識をもった。今思えば出版価格表の提示もなく、見積り価格をそのまま受け入れたに過ぎない。後から担当編集者にきくと、もっと安く上げる方法もあるという事だったが、私は一度だけと思っていたので、まあよしと自分を納得させた。自費出版とはいえ販売を目的とする出版社だけに、多少高めだったのかもわからない。私の本も是非流通に乗せ、店頭販売をするよう、何度も勧められたが、「そんな恐ろしい事を」と小心者の私は堅く断わり私家本としてもらった。
三か月程して私の初めての本「蔓茘枝」が出来上ってきた。平成八年七月である。どんなものに仕上がるかと不安がいっぱいだったが、自分でも驚く位上出来だった。
表紙の絵は旧友に描いてもらった俳画で蔓茘枝(苦瓜)の絵、とても柔らかい感じで色も忠実に出ていて、私は一冊を手にとるといつまでも見とれていた。夢のようであった。
その日からばかに忙しくなった。元の職場を中心に知っている同僚の殆んどに配り、遠くの友人たちには荷作りして手紙を添え、何度も郵便局へ運んだ。その間に電話はどんどんくるし手紙もくる。思いもよらぬ位好評であった。中学時代の恩師四人も大変喜んで下さった。何日間かろくに昼食もとれない程の忙しさであった。大勢の人に祝福され出版記念パーティを開いてもらい嬉しく私の気持ちは高揚しっ放しであった。
やがてそれも一段落すると、何も連絡をくれない人もかなりある事が気になってきた。ちゃんと届いたろうか。読んでくれたのだろうか、感想は、と折りにふれ思うようになる。しかし結局そのまま過ぎてしまった。あまり読書の習慣のない人とか、好みの本ではなかったのだと思う。誰彼かまわず配ってしまった亊を大失敗だったと反省し今もって尾を引いている。
大分たってから中学時代の同級生たちの間に噂が広がり、読みたいという人が多数出た。しかしその時はすでに残数がわずかになっていて、ほんの少しの人にしか渡す事が出来なかった。
それから二年半、その後の原稿が大分溜った頃「蔓茘枝」を読んで下さった方々から「第二弾はまだですか」と催促がくるようになった。そうなると一回だけと思っていたにも拘らず、何とかしなくてはと思い、性懲りもなく再び出版する事を考え出した。今度は前回の反省点を生かしたいと思いながら、ある雑誌の広告で現代文藝社を知り、代表者の大沢氏にお会いした。氏はご自身も作品を書いて本を出している方で、従ってこちら側の事もよく理解している方である。
お互いの一致した考えは、今の時代は書き手がやたら多く、読み手が少ない。店頭に出しても売れない時代である。ならば流通経路に乗せず安い費用で必要な部数をじっくりと、良い本を作るという事だった。前作に較べ低廉さにも魅力を感じ、より安くと一色刷りで結局二百部出版依頼した。売る売らぬは別にして定価をつけておく方がよいとの助言を受けそのようにした。題名は氏の意見を入れ最初に考えていたものを変更し「時を歩く」とした。表紙は前作と同じ旧友の俳画で日本犬の立ち姿である。しゃれた題だという人あり、平凡だ、あなたらしくないという人あり、賛否両論であった。
二回の出版で学んだが、本の題名というのは大事だと思った。販売する場合は尚更である。私の本は二冊とも私家版だったが、それにしても「蔓茘枝」は難しかったきらいがある。
「時を歩く」は平成八年五月に出来上った。校正段階で編集者の手を大分煩わせた事もあり、期間は少し余分にかかったが、価格の割にはよい仕上りである。
今度は中学時代の同級生たちを中心に送り、それなりの反響があった。
この事を機に昔の仲間たちとまた親しい付き合いが再開され、会った事もない人からも手紙をいただき、友人を介していろいろなメッセージが届いた。
さて二回の自費出版を経験した訳だが、改めてその気になれば誰にでも自分の本を作れる時代なのだとつくづくと思った。そして思いがけない人の温かみ、知りあえた心と心、またその逆も知る事になった。自分とそのまわりの小さな歴史と時代背景も残す事が出来、更に折角の労作を軽々しく配る事なく、読みたいという人にこそ喜んで差上げるようにしたいと実感した。自分の書いた拙い文章が多数の人に読まれ、ある評価をされる。怖くも有り、また意外な自分を発見する事にもなった。
あたらしくどんどん出版され、一方で消耗品として消えていく本。作る苦労を知った今、どんな本でも粗略には扱えない。
何はともあれ、二冊の本を通じて今まで全く知らなかった人との交際も始まり、疎遠になっていた昔の仲間たちにも自分の存在をアピールした亊になった。前作を読んで下さった恩師のうち三人の先生が逝去され、二冊目は不可能となったが、喜んでいただけた事はほんとうによかったと思っている。苦しみもストレスもあったが、結果としては平凡な我が人生にひと節を入れられた感じである。先ずはよかった亊にしようか。
あれからまた細々と書いてはいるが、さてどうしたものか。思えば素人が本を作るという事は並々ならぬ一大事業である。そんな大変な苦労をしてまでどうして自費出版を二回もしたのだろう。と考えながら心のどこかで三冊目を意識してペンを動かしている。
ああ、自己満足に過ぎない自費出版、何やら麻薬の香りさえ感ずるのである。(「蔓茘枝」MBC 、「時を歩く」現代文藝社より出版)