長い夜はいまだ序の口である。それなのに、一度目覚めると再び寝付けない、長い夜に見舞われている。秋の深まりにつれて長い夜は、この先なお長くなるばかりである。このことを浮かべれば、晩秋から初冬にかけての睡眠にはいっそう恐怖がつのるばかりである。再び寝付けなければ心中、悶々とすると同時、迷想と妄想の渦に巻き込まれることとなる。できればこんな雑念などはねのけて、快い瞑想にありつきたいと願っている。しかしながらこれは、今や叶わぬ願望へと成り下がっている。
主治医先生に訴えれば素っ気なく、型通りに「それは、加齢のせいですね!」という、一語だけの診立てになのであろうか。何でもかんでもにかぶせられる「加齢」という不治の病は、ほとほと厄介なものである。こんな病気になけなしの医療費をはたくのは、自分自身惨めきわまりない。それよりなにより、国家的には税金泥棒の謗(そし)りを招きそうで、片腹痛いところである。ただ健康保険制度へのわが唯一の貢献は、いまだかつてたった一度さえの睡眠薬の処方箋をおねだりしたことはない。言うなればわが睡眠は自然体のままである。ところが長い夜にあってはいまだに序の口なのに、早やこの自然体を脅かされつつある。
確かに加齢前の私は、ことのほか長い夜を愉しんでいた。いや、もっと大袈裟に言えば、至福の時にも思えて、無限大の安らぎをおぼえていた。さらに具体的には文章を書くにあたっては、焦燥感一切なく余裕にありついていた。このことをかんがみれば、このころは文章書きに行き詰まり、つまり長い夜が身に堪えているのであろう。すると、主治医先生の診断にすがるまでもなく自己診断を試みれば、不治の「わが能タリン」のせいである。おのずから、呆然とする長い夜である。
十月四日(月曜日)、再び寝付けず、つらさに耐えかねて起き出してきた。そして、約十分間の殴り書きで、長い夜をわずかに凌いだだけである。嗚呼、この先が思いやられている。熟睡や、二度寝あるいは三度寝は、今の私には過去を偲ぶだけの夢まぼろしである。