62キロの少年がつかんだ「運」と「夢」 孤独と闘い 白鵬引退』(9/27・月曜日、19:48配信 毎日新聞)。歴代最多45回の幕内優勝を誇る大相撲の横綱・白鵬(36)=宮城野部屋=が現役を退く決意を固めた。2001年春場所での初土俵から20年。横綱を14年以上務めた第一人者は自らの強さを「よりどころ」に、常に孤高の存在であり続けてきた。「(体重)62キロの小さな少年がここまで来られるとは、誰も想像しなかったと思う」。白鵬は自らの相撲人生を振り返る時、いつもそう口にしてきた。白鵬は15歳だった00年秋にモンゴルから来日。父ムンフバトさん(故人)はモンゴル相撲の元横綱で、レスリングで同国初の五輪メダリストになった国民的英雄だったが、白鵬は体の小ささから入門先がなかなか見つからず、帰国寸前のところで現在の師匠である宮城野親方(元前頭・竹葉山)に引き取られた。「無理やり牛乳を5リットル飲ませたり、ご飯をどんぶり3杯食べさせたり……。新弟子の頃はさぞ苦しかったと思う」。宮城野親方は当時を振り返る。それでも相撲の素質や期待から、名付けたしこ名は「白鵬」。昭和に一時代を築いた大鵬、柏戸の両横綱にあやかったものだった。かつて兄弟子だった同郷モンゴルの元幕内の龍皇(38)が「まるで殴り合いだった」と語った激しい稽古に耐え、幕下時代には巡業中に積極的に関取衆の胸を借りることで番付は急上昇。18歳だった04年初場所で新十両に上がると、わずか2場所で新入幕。07年夏場所で2場所連続優勝を果たすと、22歳の若さで横綱に昇進した。モンゴルの先輩横綱・朝青龍が暴行事件を起こし、10年初場所後に急きょ引退して以降、12年秋場所後に日馬富士が横綱昇進を果たすまでの計15場所は「一人横綱」として角界を支えた。常に勝利を求められ、孤独と隣り合わせの中、「昭和の大横綱」大鵬の納谷幸喜さんが持つ32回の最多優勝記録を抜くことがモチベーションになった。晩年、体調がすぐれなかった納谷さんを見舞うたび、白鵬は声をかけられた。「四股や鉄砲など基本の稽古を続けなさい。稽古をしっかりやって(優勝記録を)抜かれるなら、俺はそれでいい」。13年1月の納谷さんの死去後は献血運搬車の寄贈事業を引き継ぎ、15年初場所に33回目の優勝を果たすと、「大鵬さんに恩返しができた」と喜んだ。白鵬が相撲人生を振り返った言葉がある。「10代では朝青龍関、(元大関の)魁皇関、栃東関ら先輩の壁にぶつかり、一人横綱の時代が来て、(後輩横綱が誕生し)新たな時代を生きている。私は三つの時代で、相撲を取っているんですね」特に同年代だった日馬富士の存在は大きく、互いが横綱になっても稽古先で顔を合わせると激しい申し合いを行った。そんな日馬富士や鶴竜ら同郷の横綱のみならず、好敵手だった稀勢の里までもが先に引退。「周りは『もういいだろう』と思っているかもしれないが、そうはいかない」。またも訪れた孤独な戦いの中で、若手の「壁」であり続けることにやりがいを見いだした。近年はかち上げや張り手といった荒々しい取り口に加え、公然と審判への不満を口にしたり、優勝後のインタビューで観客に万歳三唱を促したりと、横綱の「品格」が問われた。日本相撲協会横綱審議委員会(横審)の矢野弘典委員長は27日、「横綱在位中の実績は歴史に残るものがあった」と評価した一方で、「粗暴な取り口、審判に対する態度など目に余ることが多かった」と振り返った。文字通り、未到の境地に挑み、戦い続けた土俵人生だった。ファンからサインを求められると白鵬は、色紙に納谷さんが好んだ「夢」とともに「運」の文字を添えた。「運は『軍』が走ると書く。つまり、戦わなければ運は来ないんです」。「約20年の力士生活における主な戦績。優勝回数45回、63連勝、横綱在位84場所、横綱899勝、通算1187勝、幕内1093勝」。