九月三十日(木曜日)、九月最終日のトピックスは、新型コロナウイルスにかかわる緊急事態宣言等の解除と言えそうである。しかしながらこれで、新型コロナウイルスから解放されたわけではない。このことで恐れていることがある。それはわが余生が安穏(あんのん)にありつけず、日々蝕(むしば)まれてゆくことである。
行動の自粛や抑制をボクシング用語で表現すれば、まるでボデーブローのごとく効にいている。なかでも、日常生活で最も鬱陶しいと感じているものは、衆目の目に晒されてマスク着用を強いられることである。実際にも私の場合は、眼鏡をかけさらには両耳には難聴逃れの集音機を嵌めている。これらに、マスクの紐がまつわりついている。そのためとりわけ、マスクの外しどきには、わが能タリンの神経を尖らしている。なぜなら、メガネと集音機がマスクの紐にひっかかり、今にも落ちそうになるからである。傍(はた)から見ればこれなど、ごく小さいことに思えるけれど私にすれば一大事である。そのたびに私には、鬱陶しさこの上ない思いがある。
大きなことでは、人様の出会いに齟齬(そご)をきたしている。その一つは親しい人に出会っても、近づいて会話が憚(はばか)れることである。これまた具体的には買い物にあって、お顔馴染みの女性のレジ係の人にたいし、「こんにちは」のひと声さえにも気が咎(とが)ている。おのずから、現下の実りの秋の実感が殺がれている。新型コロナウイルスが消え去らなければ、わが余生はまさしく、「嗚呼、無情」である。
緊急事態宣言等は解除されても、新型コロナウイルス自体は消えそうにない。私の場合、会食、夜間の飲み歩き、はたまた旅行の解禁など、何らの恩典もない。唯一望むのは、「長い間、ご不便をおかけしました、この先、マスクの着用は不要です。マスクを外して構いません!」という、鶴の一声である。
九月の月末日、私はこんな独り善がりの思いをたずさえて起き出して来た。近づく台風の前ぶれはいまだしの、のどかな夜明けである。それにもかかわらずわが心中は、新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)されている。そしてなお、新型コロナウイルスがからむ余生に思いを煩わしている。「小さいこと」とは言えない、大きな現実である。