秋賛歌

 きょう(九月二十六日・日曜日)は、この秋の彼岸の明け日である。自然界は人間界に比べると、文字どおり自然体というか、素直というか、いや嘘を吐かない。昨晩あたりから明らかに、肌身に寒気をおぼえていた。目覚めて起き出して洗面のために蛇口をひねると、顔面を濡らす水もまた、(おっ)と顔を背けるほどに冷たく感じた。なんだか、遠のく暑気が恋しくなった。
 寒気の訪れにあって厭なことの一つには、軽装から重たい着衣への衣替えがある。顧みれば勤務していたおりの、女子社員の冬服への衣替えは十月一日だった。確かに、夏服や冬服への衣替えは、季節替わりの明らかな証しだった。代り映えのしない勤務にあっては、いっとき目の保養にもなり、職場に和みを醸していた。それは今のわが身には二度とはありつけない、懐かしい光景でもある。
 天変地異さえなければ自然界は、人間界にたえず素敵な光景や恩恵をもたらしてめぐる。彼岸明けのころは、まさしく自然界謳歌と賛歌の真っただ中にある。わが庭中から道路へ向かって立つ、今にも「枯れ時」を迎えそうな一本の柿の木には、わずかに六個の柿の実が生っている。気張って千切るほどでもなく、日に日に熟れゆく光景に、私は目の保養を兼ねてその風情(ふぜい)を玩(もてあそ)んでいる。まもなく熟れすぎて枝から離されて、直下の道路へ「ベチャ」と、音を立てて落ちることとなる。すると私は、宅配便、郵便配達のバイク、動き回る介護の車、あるいは救急車などに踏んづけられる前に、拾ってあげなければならないと、意を留めている。なぜなら柿の実は、私にさずかる秋の味覚の筆頭に加えて、郷愁に浸ることでもまた、他を寄せつけない位置にある。そうであればやはり、きょうあたり落ちる前に千切り、感謝の思いを込めて、わが口内へ入れてやるべきであろう。ただ無念なのはわが家には、柿の実へとどく竹竿がない。タイワンリスはひどい奴で、捕っては口に加えて山中へ逃げ隠れすればいいものを、その場で旨いところだけガツガツ食って、やがては食い飽きて汚らしく道路上に食い散らす。すなわちタイワンリスは、走る回る車輪をはるかに超えて悪態をさらけ出す。人間の命と食べ物を競い合う、野生動物の本能とはいえ、私にはそのつどほとほと憎たらしい光景である。
 先日の買い物にあって私は、無意識のごとくに、栗、林檎、蜜柑を所定の籠に入れた。柿にも目を留めたけれど、庭中の柿の実が浮かんで、この日は買わずじまいだった。実りの秋は、新米を加えて満開である。秋が深まれば野山は、絵になる熟れた柿の生る風景が郷愁をつのらせて、とことんわが気分を癒してくれる。寒気の深まりを恐れて、いっきの秋賛歌である。だからと言って、「小さい秋」とは言えない。寒さの深まりまでは、わが身にうれしい「大きな秋」である。