わが余生にまつわる「雑感」

 新型コロナウイルスの出現以来世の中は、その収束や終息へ向けて時間軸を基にして動いてきた。この間には東京オリンピックやパラリンピックなどをはじめ、大小さまざまなイベントが予定されていた。ところが、予定されていたイベントの多くはやむなく中止になったり、あるいは変質を余儀なくされてきた。
 特筆すべきことではこの間には、各自治体に対応して「緊急事態宣言」の発出が繰り返されてきた。もちろん、緊急事態宣言には期限が設けられていた。そのせいで日常生活の時間軸は、おのずからその帰趨(きすう)にとらわれて進んできた。私の場合はいつもにも増して、時の流れの中に埋没した日常生活に甘んじてきた。同時にそれは、いやおうない時の流れの速さ(感)の体験でもあった。幸いなるかなこのところは、全国的に新型コロナウイルスの感染者数は漸減傾向にある。しかしながら今なお、明らかに収束や終息に目途がついているわけではない。いや多くの専門家たちは、第六波へのぶり返しを危ぶんでいる。そうなると残り少ないわが余生は、これまでと同じように新型コロナウイルスにかかわる時間軸に翻弄(ほんろう)され続けるであろう。おのずからわが日常生活には、安寧は得られそうにない。このことは、現在の私が最も恐れ怯(おび)えていることである。至極、残念無念である。だからと言ってどうすることもできず、私は「俎板(まないた)の鯉」や「轍(わだち)の鮒(ふな)」の心境にある。
 このころは、三回目のワクチン接種の日程さえ取り沙汰されはじめている。こうなるとわが日常生活はおのずからこの先も、新型コロナウイルスの時間軸の埒外(らちがい)に置くことはできそうにない。おのずと、私には時の流れの速さ(感)がついてまわることとなる。新型コロナウイルスが終息しないかぎり、わが余生には風雲急を告げることとなる。実際には残りの時(余生)とわが命は安楽を得られず、新型コロナウイルスの時間軸に蝕(むしば)まれてゆくこととなる。
 いくらか、いやかなり早いけれど、きょうの文章は、第一弾の秋の夜長の迷想である。九月二十五日(土曜日)、パソコンのデジタル時刻は現在、5:09と刻まれている。わが余生は、時々刻々に残りの時を減らし続けている。この「時」にずっと、新型コロナウイルスの時間軸がまとわりついたら、私は死んでも死にきれない。もちろん、「死にきれないならそれもいい」とは言えない。ひたすら、私は新型コロナウイルスに翻弄されない、安寧な日常生活と余生を欲しがっている。