秋晴れ高く秋風さわやか、わが身悄然

 眠気はあるのに脳髄に迷想がこびりついて、目が冴えて二度寝ができない。仕方なく起き出して来た。私は日を替えたばかりの真夜中に居る。きのうの「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)にあっては、真夏と紛(まが)う陽射しがふりそそいだ。私は咄嗟にはやりことばを捩(もじ)り、「シルバーサマー」(準夏)という、出来立てほやほやの自己流造語を浮かべた。夏草取りを怠けていたせいで、庭中は雑草茫々である。見苦しさに耐えかねて、草取りを敢行した。いや、大袈裟に敢行と言うほどではない。いっとき、少しばかり雑草を抜いた。しかし、汗の噴き出しに負けて、すぐにやめた。
 庭中に立つ一本の柚(ゆず)の木は、あまりにもたわわに実を着けすぎて、突然ほぼ水平に倒れた。悔しさはあるものの非難することなどできない。いやいや、健気(けなげ)な自己犠牲であるから余計、愛惜(あいせき)きわまりない。しかし、衰えたわが腕力では、まったく起こしてやることはできない。ふだん、私をはるかに凌いで柚の木、いやユズの実を恋い慕うのに、妻は力を貸すことなく、無下にこう言い放った。
「パパ。パパじゃできないわよ。森さん(住宅地内の顔見知りの造園業者)へ頼みましょうよ」
 私は要請を突っぱねた。
「もう、枯れてもいいよ。我々も、もう長くは付き合えないんだから、柚の木も潮時だよ」
 ユズの実はまだ青みだ。この秋に黄色を成して、もう一遍わが家と隣近所のユズ風呂に貢献してくれたら切り刻んで、私は涙を流しておさらばするつもりでいる。
 柚の木の横倒れに遭って、物置への通路が塞がれた。このためきのうの私は、狭苦しい仮の通路を設けた。草取りはそこだけで終えた。このあとには缶笊(かんざる)を台所から持ち出して、零余子(ムカゴ)取りをした。腰を傷めて茶の間のソファに横たわる妻は、仕方なく日ごろからわが動作には無頓着である。
 ムカゴを着ける山芋の蔓は、キンカンの木にまとわりついている。いや、意図してまとわりつけさせているのである。大袈裟に言えば秋の味覚と収穫を望んで、キンカンの木にだけに巻き付けて蔓を育てているのである。その証しにキンカンの木の根元には年に一・二度、物置から買い置きの鶏糞を柄杓で掬って、気ままにふりかけている。
 ムカゴ取りは容易(たやす)いようで案外、手こずるところがある。指先からこぼれて、缶笊にカンカンと音をたてたり、いや多くはあっちこっち、雑草の中へ散らばっている。すると、腰痛持ちで中腰ができない私は、これまた物置から100円ショップで買い求めたプラ製の腰掛を持ち出して来ては、仕方なく座ることとなる。
 雑草に隠れて散らばっているムカゴを一つひとつ拾い上げるにはかなりの時間がかる。腰掛に座ると、天高い秋晴れの下、時ならぬ暑さをいましめてくれるかのようにさわやかな秋風が吹いた。確かに、快い秋風である。一方で私は、風に秋愁(しゅうしゅう)をおぼえた。私は去年の秋分の日にはいて、今年はいない人に心を留めた。やおら、指折り数えた。片手指では収まらない。両手を広げて、指折り始めた。両手の指でも、まったく数えきれない。ムカゴや木通(アケビ)の蔓探しに競い合った近所の人。ふるさとの友だち。大学時代の飛びっきりの親友。勤務していた会社では数え上げるに暇(いとま)なし。卓球クラブでは複数人が浮かぶ。ごく身近なところではふるさとの長兄。いつも気懸りだった人では大沢さまのご主人様。暑い肌を潤す秋風が身に沁みた。
 缶笊を持って茶の間に入ると、開口一番、妻はこう言った。
「パパ。ムカゴ、そんなにいっぱい取れたの? ムカゴ、どこにあったの? 今晩、ムカゴ御飯にするわよ。わたし、ムカゴ御飯、とても好きなのよ」
「そうだね、おれも好きだよ」
 妻には、秋愁などないのか。妻のことばは余計、わが身に沁みた。私はメガネと両耳の集音機を外した。汗まみれの涙を手元の手ぬぐいで拭いた。庭中へのひとり出向きには、マスクは用無しだった。快い秋風はさわやかさを凌いで、わが身を悄然(しょうぜん)とさせていた。