私の場合、「寄る年波」ということばはもはや死語であり、使えば不謹慎きわまりなく馬鹿呼ばわりされるのが落ちだ。なぜなら私には、加齢という波はとっくに着岸している。知り過ぎていることばながら、あえて辞書調べを試みた。「寄る年波とは、じわじわと寄ってくる加齢。年を取ること。年波は年が寄るを波にかけた表現とされる」。
きのう(九月二十二日・水曜日)の私は、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出かけた。上手下手など、どうでもいい。なぜなら、今や「上手下手の判定」などこれまた死後に近く、たとえ「下手の判定」を食らっても、もはやジタバタすることや不平不満など微塵(みじん)もない。自分が下手なことなど普段の練習で、十分に納得いや確信していることだからである。
ところが、きのう感じた足の衰えだけは、想定外すなわちわが想定をはるかに超えるものだった。私にはこれまで、正規の「体力テスト」の体験は一度もない。ところが、きのうのわが足の衰えぐあいを体力テストに擬(なぞら)えれば、自己判定で下駄をはかせたとしても、贔屓(ひいき)のしようのないほどの赤点だった。このことが誘因でたぶん、今やまったく場違いの寄る年波ということばが、未練がましく浮かんだのであろうか。
きょうは季節を分ける「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)である。言わずもがなだけれど、「春分の日」(三月二十三日ころ)と対比される季節の分かれ目である。秋分の日が過ぎれば、日に日にわが嫌う寒気が忍び寄る。いや、大手を振って近づいて来る。このことでは春分の日に比べて秋分の日は、私には必ずしも歓迎できるものではない。ところが、たった一日で比べれば私には、断然秋分の日に軍配を上げるものがある。その理由はほぼ例年、秋分の日の恵みはわが身に途轍もなくさわやかだからである。
例年にたがわず、きょうの秋分の日もまた、雨なく、風なく、そこはかとなく明かりが空を染め始めている、穏やかな夜明けである。こんなにも穏やかな夜明けにあってなぜ? 私には、今やとっくに置いてきぼりになっている、寄る年波ということばが浮かんだのであろうか。わが身には寄る年波というより、それよりはるかにつらい「焼が回って」いるのかもしれない。そうであれば私は、たった一日の秋分の日だけでも、のどかに暮らしたいものだ。切ない単願、いやいや喉(のど)から手が出そうな嘆願である。