漢字検定一級に合格したのちには研究員扱いとなり、二級までの指導資格が付与される。私は、平成8年の第3回の検定試験において、漢検受験初体験にもかかわらず、幸いにも1級に合格した。受験は勤務する会社における大阪支店への単身赴任のおり、住まいを構えていた兵庫県尼崎市のどこかの試験会場であった。額入りの大きな合格証書には、平成9年2月24日と刻銘されている。合格したのちには、課題論文の提出を要請される。この文章はそのおりに書いて、提出したもののなかから、多くの部分を削除して繋げたものである。
本旨はわが生涯教育において、漢字学習を選んだ経緯と、その決意を書いたものである。それゆえ本稿には与ええられたテーマにそって、『当用漢字について思うこと』と題して提出した。しかしやたらと長く、内容も掲示板にはふさわしくないため、『ひぐらしの記』にそう部分だけを連ねたものである。この点では、きわめてちぐはぐな文章となっている。あらかじめ、詫びるところである。このことでは当初の題目を変えて、『わが生涯学習』と、銘打つものである。
私が島田外科を「しまだがいか」と言ったので、五歳違いで中学を終えて看護婦になり立ての「静姉ちゃん」から、苦笑いがこぼれた。静姉ちゃんは異母長兄の二女なので、私にとっては年上の姪っ子にあたる。このことは四十余年前へさかのぼり、私は中学一年生だったはずである。こんな日常語を中学生になっても間違えるなんて! 私が漢字で初めてあじわった苦々しい体験だった。このときの恥ずかしさは、おとなになってこんにちにいたるまで、いっときも離れていない。一方ではこのときの恥ずかしさが、のちの漢字学びのきっかけとなっている。
勤務する会社には、五十五歳になると定年後を見すえて、宿泊をともなった集合研修が行われる習わしがある。それは、いまやどこかしこにはやりのライフプラン(生涯教育)研修の一環である。私は平成7年7月、この研修に参加した。確かに、人生晩年、とりわけサラリーマンであれば、定年後の生き方の善し悪しは幸不幸に直結する。研修最終日にあって研修者たちは、決意を固めて宣誓をすることが義務付けられていた。私はこう宣誓した。「漢字検定一級に合格し、さらには語彙力を高めて、定年後は文章を書いて、ふるさとの人たち、友達、見知らぬ人たちと文通をしたい」。
私は今年(平成12年・2000年)の9月末日付けで、定年退職する(60歳)。わが家から最寄りのJR横須賀線北鎌倉駅までは、途中、小走りをしても歩いて、25五分ほどがかかる。勤務する会社は、営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅前にある。この間にはJR東京駅で降りて、乗り換えなければならない。会社までの片道所要時間は、2時間近くである。定年後の私は、会社生活にまつわる時間から解き放される。そして、あり余る自由時間にありつける。それと同時に、生涯設計のやり直しが強いられる。
具体的には、定年後の生き甲斐づくりである。それを支えるのは生涯学習である。私はあらためて、掲げる生涯学習の復習を試みた。一つめは、漢字検定一級に合格すること。幸いにして四年前に叶えている。二つめは、子どものころから持ち続けていた文章を書きたいという、夢を実現すること。これには、ほそぼそと自己流の手習いを始めている。そして三つめは、ふるさとの長兄(現在七十三歳)の生き方を真似ること。(長兄はいろんな人と文通したり、NHKラジオの番組に投稿したりして、しょっちゅう兄の名と文章が世の中に流れている)。これには、いまだに手つかずである。
私は平成10年8月10日に、机上にパソコンを据えて、二つめの実践に向けて本格始動に就いた。具体的にはこの日を境にしてほぼ毎日、ワードで文章を書き始めたのである。目標を定めた。最初は1000字、次には1200字、その次には1400字を自らの日課にした。そののちには、約2000字(400字詰め原稿用紙5枚程度)が定常になった。この日課は、一年半強続いた。出勤前の五時近くに私は、書きたての文章をふるさとの長兄へファックスした。
ふるさとの同級生が企画した還暦旅行へ参加するため、私はふるさと帰行に恵まれた。そのおり長兄は、「あのころは、ファックス用の感熱紙を何本も買ったたいね」と言って苦笑いした。いやそれは、わが頑張りにたいする、長兄の飛びっきりの褒め笑いだった。掲げた目標が礎(いしずえ)となって、定年後のある時期から、現在の「ひぐらしの記」へとつながったのである。そのため幸運にもわが生涯学習は、頓挫することなく継続にありついている。
振り返れば、中学生になっても外科を「がいか」と読んだ赤っ恥が、漢字をわが生涯学習に仕向けたのである。だから、漢字仕立てのわが生涯学習に偽りはない。かたじけない。またしても長い文章を書いてしまった。きっかり、2000字である。