突如として、耳慣れない「シルバーウイーク」ということばが現れた。ことばに、確たる意味は添えられていない。言うなれば曖昧模糊として、私には意味が不確かである。だから私は、自分勝手に二つの意味づけをしている。一つは、きょうとあすの普段の週末二日の休日に加えて、「敬老の日」(九月二十日・月曜日、休祭日)までの三連休、そしてその週の「秋分の日」(九月二十三日・木曜日、休祭日)、さらには一日の平常日を挟んで、またまた普段の週末二日(最終日は九月二十六日・日曜日)の休みまでかな? と、思う。
一つは、五月のゴールデンウイークに準じる命名かな? と、思う。確かに、それとなくはわかり、あらためて辞書にすがることもない。いや辞書を開いても、「シルバーウイーク」の見出しはないはずだ。ことばは事象がなくなればおのずから死語となり、新たな事象があればそれに準じて、新たに生まれてくる。すでに終えた東京オリンピックやパラリンピックにおけるアスリートの究極の願望と競い合いは、メダル獲得である。メダルには金・銀・銅があり、アスリートは金メダル(ゴールド)に狙いをつけて、長いあいだ鍛錬を続けている。しかし、銀メダル(シルバー)、あるいは銅メダル(ブロンズ)さえにも、届くことは至難を極めることとなる。いや多くの人たちは、メダルは端(はな)から羨望や憧憬にとどまり、「選ばれて参加することにこそ意義あり」と言って、自己慰安をせざるを得ないところがある。このことをかんがみればメダルへありつけるアスリートは、誇れる勝者にはちがいない。しかしメダルの色は、明らかに順位差のある証しでもある。すなわちシルバーは、ゴールドにはなり得なかったけれど、それに準じる二番目の確かな証しである。
このことではシルバーウイークには、ゴールデンウイークほどではないという、ことばのひびきがある。それでもやはり、シルバーウイークにもウキウキ気分は多分にある。ことばとは摩訶不思議な人類の創造物である。今回はウキウキ気分に水を差されて、物見遊山や外出行動に自粛を求められている。そのせいで、「どこまで続く、コロナ禍ぞ!」という、恨みつらみのことばが切なく世間にただよっている。
さてさて、ここまで書いて私は、試しに辞書を開いてみた。たちまち、恥を晒した。わが不徳と浅薄な知識を詫びなければならない。私は見出し語に「シルバーウイーク」と置いて、辞書を開いた。説明書きなどないものと高をくくり、「試し」に開いただけである。ところが案に相違し、ずばりの説明書きがあった。「シルバーウイークとは、日本の秋の休日が多い期間をさす。ゴールデンウイークに対することば」そして、丁寧にも九月のカレンダーが添えられて、十八日から二十六日までに、期間指定の赤枠がはめられていたのである。
私は『ひぐらしの記』には、大仰(おおぎょう)に「随筆」と銘打っている。今さらながらに随筆を見出し語にして、辞書を開いた。「随筆とは、心に浮かんだこと、見聞きしたことなどを筆にまかせて書いた文章」。確かに私は、筆や鉛筆に代えて、指先の動きにまかせて文章を書いている。今回は必ずしもすべてが嘘っぱちとは言いたくないけれど、長々とあてずっぽうのことを書いていたのである。
きょう(九月十八日・土曜日)の私は、目覚めて布団のなかで、なぜかこんな突拍子もないこと浮かべていた。「山には、富士山にたいし、日本一の名峰」という称号がる。一方、川の日本一の名流」は、どこのなに川だろうか。こんなことがだしぬけに浮かぶようでは、安眠をむさぼることなど夢のまた夢である。私には「焼が回っている」のであろうか。もとより、わがシルバーウイークの目玉は、身につまされる「敬老の日」一辺倒である。シルバーウイークということばが、はかなくわが身に沁みている。