彼岸花と「ふるさと便」

 このところは私的なことを長い文章で綴り続けて、切なさに加えていたく、心身の疲労をおぼえています。そのためきょうは、意図して短い文章でお茶を濁すつもりです。だからと言って、素っ気なく書くものではありません。いや正直なところ、忍びない気持ちに耐えられず、長い文章は書けそうにありません。もとより、いたずらに長い文章を書くことは、みずからをいましめています。
 きょうは九月十七日(金曜日)、来週の二十日(月曜日)は入り日、半ばの二十三日(木曜日)は文字どおり中日・「秋分の日」、そして二十六日(月曜日)は明け日です。すなわち、秋たけなわにあって「秋彼岸」満載です。道筋の一隅の草むらには、今年もまた秋彼岸に応じて「彼岸花」が咲いています。群がるほどではなく数本と抱き合い、細身を真っすぐ伸ばしています。例年のことながらこの光景には、私はかなりの哀れさを感じます。それは、咲く時日が短く限られているせいでしょう。なおさら今年の彼岸花にかぎれば、しばし立ち止まり愛でるには忍びなく、私は意識して足早に通り過ぎています。
 おととい(十五日・水曜日)には、思いも寄らない「ふるさと便」が、大きな段ボール詰めで宅配されてきました。瞼に涙をためて開けてみると、庭柿、生栗、ほか手作りのもの、さらには追加で購入した物などが、ぎっしりと詰められていました。送ってくれたのは、今や亡き長兄の次女と主人でした。開け終えると、溜まっていた涙がドボドボと落ちました。このふるさと便には、いつものふるさと便をはるかに超えて、うれしさと愛着がつのりました。なぜならこのふるさと便には長兄亡きあと、ふるさとが遠くならないようにという心くばりと、放っておいたら途絶えそうなわがふるさと慕情の継続への愛情がいっぱい詰められていたからです。
 もとより私は、ふるさと便にわが味を占めることは望んでいません。私がふるさと便に望んでいるのは、ふるさとが縁遠くならないことだけを一心に望んでいます。このためには一方的にもらうだけではなく、心の籠ったお返しは肝に銘じています。今年の彼岸花には切なさだけが、そして、このたびの思いがけないふるさと便には、切なさに加えて、うれしさとありがたさの二重の思いが同居しています。
 今の私は、長兄を偲んで短く書きました。いや、涙が落ちて、短くしか書けません。ただ、短くても切なく、心身の疲労はとれるどころか、いっそういや増しています。しかし、長兄を偲ぶことで、心は満たされています。今のところ、表題は浮かんでいません。