呻吟

 九月五日(日曜日)、昼間、つれづれに文章を書いている。長雨続きだった空に、ほのかに陽射しがそそぎ始めている。これに応じて、鬱陶しさにまみれていたわが気分は、いくらかほぐれ始めている。まさしく、太陽がもたらす、何物にもかえがたい天恵である。
 ひ弱なわが精神力では、一旦継続が絶たれると、再始動を叶えることは、至難の業である。これまでの私は、こんな苦い体験を幾度となく、実証してきた。すると、継続の頓挫を防ぐために私は、文章の内容や質には意を介さず、惰性という武器をたずさえて、ひたすら駄文を連ねてきた。そして、いくらか功を奏して、「継続は力なり」を実感した。
 ところがこのところの私は、惰性にさえそっぽを向かれて、継続がままならない。挙句には、「もはやこれまで」、と再始動を断念していた。実際には、再始動の苦しみから逃れることに心を安んじていた。このことでは確かに、心身の安寧を得ていた。
 一方でこの安寧には、充足感が欠けていた。正直言って、安寧にはかなりのうしろめたい気分がともなっていた。それはたぶん、長年の継続をみすみすほうむりさる、遣る瀬無さであったろう。こんなことを心中にたずさえて、私は文章を書いている。すると、自分自身に哀れさを感じている、現在のわが心境である。
 一年延期された「2020年、東京オリンピックおよびパラリンピック」は、きょうのパラリンピックの閉会式をしんがりにして、すべての競技とイベントを終える。東京オリンピックの開会式(七月二十四日)から空白を挟んで、きょうのパラリンピックの閉会式(九月五日)までは、やはり夏空の下の祭典だった。
 祭典済んで、日本社会はあすから平常社会に戻ることとなる。ところが、日本社会の難題と喧騒は、いまだに新型コロナウイルスの脅威とその収束を残したままである。加えて、新たに政治にまつわる突風が吹き始めている。ほとほと、ままならない日本社会の世相である。おのずからわが憂鬱気分は、なお晴れないままである。
 こんなことはどう気張ってもわが憂鬱気分は失せず、再始動はおぼつかないかもしれない。おのずから、明るい陽射しのなかにあっても、わが心中にはなお暗雲が垂れ込めている。しかし、無駄な抵抗と諦めてもおれない。私は、再始動のきざし探しにおおわらわである。
 ウグイスは声仕舞いをして、セミはいのち尽きたのであろうか。鳴き声が途絶えている。私は、声無く呻吟している。寂しさつのる、日なかのたたずまいである。