産交バス

 産交バス(九州産業交通)は、わが子どものころの憧れでした。今やふるさとと名を変えたわが生誕の地・内田村には、現在、産交バスの運行は途絶えています。村の過疎化とマイカーの登場という、ダブルパンチに見舞われて、利用客の減少に拍車がかかったせいと、言われています。確かに、民営の会社にすればやむにやまれぬ決断であったろうとは、十分に理解するところです。しかしながら一方、定期路線バスの廃止以降の村は、いっそう過疎化に加速がかかり、たちまち村の風景をも、寂しく変えています。
 バスの廃止やマイカーの登場は、おのずからその後のわが家(ふるさと・生家)の送迎風景をも変えています。わが家のある集落は、隣と向かいの二軒を含めて、三軒ほどにすぎないけれど、「田中井手」という、集落名で呼ばれています。近隣の街中(山鹿市)とは一時間に一本ほど、はるかに遠い熊本市との間には、一日に一本の直通バスの時刻表がありました。その終点のバス停は、一時は「田中井手」でした。
 わが高校生のおりの修学旅行の行き先は、華の都「東京」でした。ところが私は、この修学旅行には参加していません。なぜなら、私は修学旅行が実施される前に一度だけ、東京へ行っていました。東京に住んでいた次兄のところへ、遊楽の一人旅を敢行していたのです。このとき、遠い東京への旅支度と旅立ちの伴(とも)をしたのは、生家をあずかる長兄でした。長兄は、私をはるばると熊本駅まで連れて、東京行き夜行列車に乗り込ませました。そして、私の視界から長兄の姿が消えるまで、両手を振り続けていました。
 私たちは一度、途中の山鹿市で下車し、乗り換えて熊本市(駅)まで向かいました。
田舎道をめぐる産交バスはいつも、小石や砂利、土塊(つちくれ)むき出しを走り、土埃(つちぼこり)を周辺にまき散らし、乗客の体をピンポン玉のように跳ね上げていました。この日の道程は、山あいの村から熊本市内へ行くだけでも、二時間ほどかかる、小旅行とも言えるものでした。熊本駅からの夜行列車は文字どおり夕方に発ち、明けて朝の十一時頃に東京駅のプラットホームに滑り込む、十九時間ほどの長旅でした。当時の私は、バスに乗るとすぐに小窓を開けていました。それでもすぐに、吐き気や胸のむかつきに見舞われました。そのため私は、常に用意周到を余儀なくし、おそるおそるバスに乗り込むようになっていました。そのせいで私は、憧れとは裏腹にバスへの乗車が恐怖となり、バスが嫌いになりおのずから、バス利用の遠足や遠出は避けていました。
 この日もまた、バスに乗るやいなや、私はすぐに吐き気に見舞われました。かたわらの長兄もまたすぐにあたふたとして、それでもかいがしく手当てに翻弄してくれました。そのとき以来いつもこのことを振り返り、私はこのときの長兄の心中はいかばかりであっただろうかと、案じ続けてきました。今なお、心中には悔恨と申し訳なさの気持ちがいっぱいです。なお重ねればそれ以来、わが心中にはつらさと心苦しさが同居し、いまだにわだかまっています。
 長兄と私は、十三の年齢違いです。長兄は先日(八月二十二日)、この世からあの世行きのアクセス(交通機関)に乗りました。行き先は、産交バスなら、「田中井手バス停」から見知らぬところです。私は新型コロナウイルスのせいで、見送りをフイ(不意)にしました。かなり残念だけれど、そのぶん長兄は、わが命あるかぎり心中に、生き続けてくれます。ただ、最期だけはきらびやかな葬送車ではなく、臨時雇いの産交のマイクロバスか、あるいは後継者(長男)が運転する、長兄の自家用車(軽トラック)に、乗せてあげたかったです。
 わが傷心もまた、わが命あるかぎり癒えず、この先へ続きます。ふるさとではこの時分、村自慢の彼岸花が見ごろに咲き始めているはずです。今年にかぎれば、とことん恨めしい「ふるさと花」です。