私は農家に生まれて、よかった。水車の回る精米所に生まれて、よかった。大家族の一員になれて、ほんとうによかった。特に、善い父、好い母、良い兄姉に恵まれて、よかった。美しいふるさとを持てたことは、ほんとうによかった。
東に大分県と宮崎県、北に福岡県と佐賀県、西に長崎県、南に鹿児島県、なお南に沖縄県とその諸島にあって熊本県は、別名中九州と呼称されている。熊本県にあってわが生誕地は、福岡県と大分県と県境を分け合う、県北部地域に位置している。おのずからわが生誕地は、山あいの盆地をなしている。生誕時の行政名は、熊本県鹿本郡内田村であった。そののち、二度ほど近隣市町村との合併を余儀なくし、現在は熊本県山鹿市菊鹿町の行政名をあずかっている。しかしながら生誕地の様相は、昔とちっとも変わらず、今なお鄙びたたずまいにある。
いや、昔と大きく変わっているところがある。すなわちそれは、日本社会の世相をきびしく映し、年々過疎化きわめて少子高齢化現象の渦中にある。隣接するところでは、米どころ・菊池平野と夢大地・鹿本平野との地続きにある。生誕地にかぎれば、今なお田園・山村風景の真っただ中にある。岩肌を縫って湧出する源泉は、川上から川下に至りしだいに水量を増して川幅を広げ、「内田川」と名づけられて、ひと筋河口へ流れている。途中、名流「菊池川」に吸い込まれて川の名を失くし、有明海へ潜り込んで行く。この間、「井尻川」など数多くの村内の支流を合わせ込んだ内田川は、普段は早瀬、せせらぎ、澱みをごちゃ混ぜにして、のどかに流れている。もちろん、集中豪雨や大水の時には暴れ川になる。けれど、わが記憶ではこれまで、村中に大きな被害をもたらしてはいない。このことでは、村人にとっては優しい川である。
わが小学校時代にあって、内田村立内田小学校にはプールはなく、そのため内田川は天然プールの役割を担っていた。わが家の生業(なりわい)をなす精米所は、内田川から水路を引いて水車を回していた。内田川と並走する一本の県道は、共に村の風景の主役なして、かつ主要な生活基盤をなしている。村人の生業は、山野および田畑中心のほぼ自給自足で営まれている。村中には一基の交通信号機さえない。行き交う人たちはみな気心が知れて、会釈なく通り過ぎる者はだれもいない。地区ごとに寄り集まって登下校をする学童たちは、おとなに会うとみなけなげに、大きな声であいさつをする。
村中には四つの天然温泉がある。ド派手な誘致ポスターなど無くとも、村内や近郊近在から、農作業の疲れや心身の癒しにやってくる。ときには、ドサまわりの芝居が大広間に掛かり、昔ながらの母モノや人情劇を観覧できる。勝手知った村人たちは、いくらか色がくすんだ厚手の湯飲み茶碗に、何度も湯を足して出がらしの番茶をそそいでは、それぞれが思い思いの弁当を広げている。膝を横崩しにして座り、長テーブルに頬杖を突いては、連れの仲間たちと談笑に耽っている。多くは、嫁のこと、孫のこと、通院のこと、はたまたすでに野辺の送りをして久しい連れ合いのことなどを偲んでは、まなうらに涙を溜めている。しゃべり過ぎた人や、話の種が尽きた人は、畳の上で寝そべっている。
思いようではわが生誕・内田村は、確かな「悠久の里」である。もちろん今や、ありきたりに「ふるさと」と、名を変えている。だからふるさとは、わが心の中で常にもっとも輝いていなければならない。もちろん、色褪せるはずはない。いやいや、郷愁という心模様を映して、いっそうつのるばかりである。そのぶん、ときにはただただかなしい……。