食べものには、それぞれに旬というものがある。同じ食べものであっても、食べる時季や時期によって、おのずと味覚や風味が異なってくる。
雑煮は、元日の朝に食べる雑煮の味が旬である。夏の盛りにあって雑煮はもちろんのこと、私は餅そのものを敬遠したくなる。ずばり食べもの美味しさは、食べどきの季節や雰囲気、はたまた五感の微妙な調子に左右されるところがある。
正月用の雑煮の準備が始まる年の暮れになると、私には切なく思い出されてくる「できごと」がある。それは、元日の雑煮の具をめぐるものだった。父と母はすでに亡くなり、私は六十歳になった。最近のできごとのように思えていたけれど、遠い昔へさかのぼるできごとなっている。
生前の父は不断、無塩(生魚)や馬肉を好んで買い求めて、よく得意げにぶら下げて帰ってきた。もちろん、家族に食べさせたい、という親心ではあった。だけど反面、父自身が食べたい食べものであり、自分の嗜好に逆らえない証しでもあった。父は馴染みで行きつけの精肉と魚介類のお店へ寄り道しては、魚の藁苞をぶらぶらと提げて帰ってきた。わが目で見る父の性格はおおようで、細かい神経など持ち合わせていないように思えていた。実際にも父の買い物ぶりには、値段にこだわらない殿様ふうの買物風景があった。挙句、いつもの父の買い物ぶりに私は、家計事情の翳りを見ることはなかった。確かに、不断の父からは、お金めぐりの事情までに気をめぐらす様子は、私にはうかがえなかった。それでも私は、イワシやサバそして太刀魚、赤身鯨(刺身)、あるいは馬肉が食卓に上る不思議さは感じていた。三段百姓を兼ねて水車を回しての精米所のなりわいと、さらには大家族(父は十四人の子沢山だった)の家計事情は苦しいはずだった。しかし、好物をぶら提げて帰る父にたいして母は、不満の表情を見せたり、ぶつぶつと嘆きの声を言うことなどなく、父の買い物に応じて家族の好みに仕上げていた。
魚ほど頻繁ではなかったけれど父は、赤身鯨や馬肉もよく買ってきた。馬肉の固い塊を食べるときの家族は一様に、牛の二度噛みを真似ていた。馬肉の筋部は、口内に長く噛んでも噛み切れなかった。そのため挙句には、一度口内から出しては再度口内へ入れ戻し、執拗に噛み続けた。それでもみんなが、われ先に馬肉にむしゃぶりついた。
ある年の暮れにあって父は、
「正月(元日)の雑煮の具は『スルメ』で、いいね!」
と、断定的に母に訊いていた。
日頃の私は、父の雑駁な買い物ぶりを見ていた。だから、この言葉を耳にしたときの私は驚き、父の言葉の真意をはかりかねていた。ところが実際にも元日の雑煮の具は、スルメになっていた。
確かに、不断の父はスルメにも目がなかった。スルメの束を誇らしげに、ぶら提げて帰ってきた。私も、スルメは大好物だった。だけど、この言葉を聞いたとたん私は、声無く心中で(えっ、なんで! スルメ……)と、思った。母も、一瞬驚いたようだった。
「雑煮の具をスルメで? 合うかどうか……」
いつもの母に似ず、いぶかった。
当時、スルメと馬肉では価格で、馬肉がはるかに高かった。値段どおりに雑煮の具には、家族はスルメより馬肉のほうがはるかに旨いのを知り尽くしていた。父にしても、元日の雑煮の具が、スルメより馬肉が旨いのは知り過ぎていた。だからあのとき、父が母への「元日の雑煮の具は、スルメでいいね!」という、問いかけにはどんな事情がったのであろう? 家父長であるかぎり、やはり家計事情であったのであろうか。そうであれば、「父ちゃん、スルメ、旨いかもね?」と、助け舟の相槌を打てばよかったのかもしれない。今なお、悔恨の残る昔日のワンシーンである。それとも、父の嗜好に変化があらわれ始めて、馬肉よりいっそうスルメを好み出していたのであろうか。いや、その年にかぎり家計事情が苦しくなり、止むにやまれず元日早々に、ふだんのんきな父さんも、みずから好物の切りつめを意図したのであろうか。私には今なお謎に包まれたままである。
スルメの具入りの雑煮は、けっこう旨かった。しかしながら、食べ慣れていた馬肉の具の雑煮の旨さには、到底かなわなかった。それでも私は、「父ちゃん、旨いよ!」と言って、餅と具を腹いっぱい食べた。自分と家族の食欲を満たすためには、いつもの父は家計経済には無頓着を装い好好爺然だったのに、あのときの父は切羽詰まっていたのであろうか。雑煮の具をめぐる小さなできごとだけれど、私の心の中に今なお解けないしこりとなっている。
私も父の在りし日の年齢に至り、家計の苦しみを味わい始めている。切ない、父、追憶の一コマである。