七十六回目の「広島、原爆の日」

 夏の朝、のどかな夜明けにあっても、文章が書けない。このところ続いている、わが体たらくの証しである。日本の国の現下の世相は、憂いごととそして楽しいことに、ほぼ二分されている。言うなれば、悲喜交々の混乱状態にある。この状態は身近なところで、テレビ画面の上部に流れてくるテロップが、ありのままに報じている。
 テロップで流れるものでは、毎夏恒例の高気温のもたらす熱中症への警告が群を抜いている。このテロップにあからさまに加わるものでは、日本列島の津々浦々における「猛暑日」(気温三十五度以上)の告知がある。これら例年の夏の定番状態にあってこの夏にかぎれば、日本列島に猛威を揮う新型コロナウイルスへの感染状況が流れてくる。現下の日本の国は、忌々(いまいま)しい夏の盛りにある。
 ところが一方、今年にかぎれば目下の「東京オリンピック」における、日本選手のメダル獲得状況もまた、頻繁に流れてくる。もとよりこのテロップは、日本選手の華々しい活躍の証しであり、日本国民が挙(こぞ)って、大喝采を浴びせている証しでもある。
 こんなことを浮かべて、休みを決め込んでいた私は、一転パソコンを起ち上げた。それは時の流れを忘却しないためである。いや、決して忘れることはないけれど、記憶を褪(あ)せないためである。文字どおり真夏の真っ盛りにあってきょう(八月六日・金曜日)は、めぐりめぐって七十六回の「広島、原爆の日」である。私は敬虔な面持ちで、夜明けの大空を眺めている。戦雲無き青い大海原にあって、白い綿雲がぽっかりと、あるいは千切れちぎれにあちこちに浮かんでいる。雲の合間に、教科書のページの片隅の写真で見た、「キノコ雲」が恨めしくよみがえる。私にとってきょうは、毎年繰り返す一分間の黙祷の日である。
 書き殴りでかつ走り書きも、こんな文章が書けて私は、ノート代わりのパソコンに大感謝! 頻(しき)りである。