幾星霜

 書けば愚痴こぼしまみれとなる。それを恐れて、このところの私は、文章が書けない。しかし、きょうだけは書かずにおれない心境をたずさえて、起き出して来た。それは一年めぐりにやって来る、格別な日だからである。令和三年(2021年)七月十五日(木曜日)、現在デジタル時刻は、4:18と刻んでいる。やがては、夜が明ける。前面の窓ガラスは、台風予報でもないかぎり、常に開けっぴろげである。眺める遠峰のはるかかなたには、故郷(ふるさと)がある。夜が明ければ郷愁に浸りたくて、真っ先に遠峰を眺めている。いや、遠峰の先に浮かぶ、故郷に思いを馳せている。そして、今では御霊に変じた父母や多くのきょうだいたちを、かぎりなく偲んでいる。幸いなるかな! きょうは、たっぷりと偲ぶにはきわめて好都合である。なぜなら、ふるさとは七月盆のさ中にある。だからと言って本当は、御霊とは呼びたくない。七月盆に合わせて、亡き父母ときょうだいたちは、一年ぶりに懐かしいわが家に帰っている。確かに、私がふるさと帰りを敢行しても、対面は叶わない。しかしそのぶん、心中では面影とは言えない、在りし日の姿がありありと浮かんでいる。余儀なく、リモコンはやりの世の中だけれど、こんなに楽しいリモコンはない。唯一、気になるところは、数ある盆提灯はだれが天井から吊るしたであろうか。迎え日(十三日)と送り日(十六日)の墓参の役割は、だれがになってくれているであろうか。
 さて、幾星霜過ぎてきょうのわが齢(よわい)は、八十一年を迎えている。うれしからずや! かなしからずや! 人生行路の確かな証しである。いや、かなしいのはこの事実を対面で、父母に告げることができないことである。そのため、文面で告げるためにきょうの私は、パソコンを起ち上げたのである。もちろん、父母は読むことはできず、わが一方的な仮想のシグナル(告げ)にすぎない。瞼の中に、心の中には、在りし日の父母の姿が彷彿を超えて、実在の姿で浮かんでいる。父は七十五歳で、母は八十一歳で他界した。母の他界は、八十一年前のきょうである。ふるさとのお盆のさ中にあって、なお奇しくも母の祥月命日とわが誕生日は重なり合っている。かなしくもうれしいめぐり合わせである。そのうえにことしにかぎれば、共に八十一年を合わしている。「母ちゃん、かなしいけれど、うれしいね!」。
 夜が明けた。いまだに明けきれない梅雨空の下、私は遠峰を覆う曇り空のはるかかなた、わがふるさとへ心を馳せている。心の中では、みんな生きている。想い出、ではない。