「冗語・剰語(じょうご)」

 「寄る年波には勝てず」、さらには「世の中のざわめき」や「身辺のざわめき」等々に抗しきれず、このところの私はモチベーションの低下に見舞われている。挙句、わが精神の薄弱の証しを曝け出し、頼りない克己心に怯えている。
 卑近なところでは、文章を書く気力を失くしている。こんなときには「三十六計逃げるに如かず」と、言えそうである。いや、逃げようのない袋小路に入っている。「物言えば唇寒し秋の風」。いや無理やり書けば、碌でもないことを書きそうである。とどのつまりにはさまざまなバッシングを受けて、冷汗三斗(れいかんさんと)まみれになりそうである。
 私は寝床に寝そべりながら、時間枕元に置く電子辞書を意図して長い時間開いていた。そして、止めどもなくかつ脈絡なく浮かんでくることばの復習を試みていた。わが掲げる「語彙の生涯学習」は、もはやにっちもさっちもいかずに、こんななさけない状態に変わり果てている。すなわち、机上の新たな学びではなく、目覚めて二度寝にありつけないための、今さら復習するまでもない日常語での、腹立ちまみれの時間つぶしにすぎなかった。まさしく現在の私は、「袋のネズミ」の状態にある。だからと言って私には、「窮鼠、猫を嚙む」勇気はない。ただ大口を開けて、啞然とするばかりであった。梅雨空、いや梅雨明け間際の寝起きの独りごちである。
 続いていた雨空を遠のけて、わずかに陽射しのこぼれる夜明けを迎えている。オリ・パラ、コロナなどと、ざわつく世の中を照らす、希望の朝日となればとこれに託し、いや今朝の朝日にはもっと欲張って、わが憂さを晴らす希望の光を願っている。
 懸案のアジサイの剪定、いやととのえようのない手当たりしだいの伐り落しを終えて、わが気分はいくらか和らいでいる。七月十日(土曜日)、傍から見れば、「前田さん、気狂いでもしたのかな?」と、心配をこうむりそうである。それでも、まったく実の無い一文の締めにようやくたどり着いている。しかし幸いなるかな! わずかでも時間がつぶれたことは確かである。
 このところの常套句、「悪びれず」「かたじけない」に加えて、これらの上に「なさけない」のオマケつきである。再び、電子辞書を開いた。「冗語・剰語(じょうご)」、意味には「むだなことば、余計なことば」と、記されている。必ずしも、余計なことばとは言えないつらさがわが身に沁みている。