「人の命は、一瞬の闇の中にある」

 人生は、一寸先は闇の中にある。古来、普(あまね)く諭(さと)されている人生訓である。確かにそうだ。しかし、あまりにも大雑把すぎて、臨場感をともなう悲しみはない。だから私は、起き立てに浮かんだわが刹那のフレーズ(成句)に置き換えている。
 命は、一瞬の闇の中にある。すなわち、人の命にかぎらず、広く生きとし生きるものの命である。ところが、これまた大雑把すぎて、悲しみがともなわない。そのため人の命にかぎり、直近相次いだ現実の悲しみを浮かべればこれらである。千葉県八街市にあっては人為の事故によって、学童の命が一瞬にして絶たれた。静岡県熱海市にあっては、豪雨がもたらした土石流により、これまた人の命が一瞬にして絶たれた。人災および天災などと分けようのない、無慈悲の突然の災難である。どちらも、ありきたりの表現では言い尽くせない、かぎりのない悲しみである。もちろん、身につまされる悲しみと言って、他人行儀の表現をすることには、いっそう憚(はばか)れる思いがある。まさしくずばり、「人の命は、一瞬の闇の中にある」。悲嘆に暮れる、現実の悲しみが相次いで起きたのである。悲しみに、甲乙のつけようはない。共通するのは、現実の悲しみである。
 こんなおりテレビニュースは、口角に飛沫(しぶき)を立てる都議選の応援光景を映し出していた。私はいやな光景に目を逸らした。なぜなら、人の悲しみなどそっちのけにして、党利党略と自己保身(当選)、すなわち我欲丸出し連呼の光景だったからである。
 きょう(七月四日・日曜日)は、都議選の投開票日である。私に選挙権はない。しかしながら私は、都民いや人に良識の欠片(かけら)あるやなしやと、選挙結果に固唾(かたず)をのまされている。人の悲しみの渦中にあって映るは、ただただ浅ましい舌戦(ぜっせん)光景であった。絶たれた命は確かな善だけれど、息づく命は、はたして善なのであろうか。まだせっかく生存するわが命であれば、この先僅かであっても、善をたずさえて生きてみたいものである。恨めしい小降りの雨の、梅雨空の夜明けである。