宴(うたげ)のあと

 七月二日(金曜日)、起き出して来て、窓ガラスに掛かるカーテンを開けた。しばし、窓越しに山の法面に咲く、わが手植えのアジサイを眺めている。嵩高くかつ横に列なり咲いているアジサイは、梅雨の雨に黒ずんで濡れている。晴れの夜明けであれば彩りを違(たが)えて、しっとりかつ妖艶な姿を映し出し、私は心ゆくまで見惚(みとれ)ている。しかし、夜のたたずまいを引きずり、なおかつ雨の夜明けにあって、彩りはまったく見えない。小豆まぶしの牡丹餅のごとく小豆色ではなく、黒ゴマまぶしのような眺めようである。薄暗い雨の夜明け間近にあっては、七変化と持て囃される姿を見ることはできない。
 翻(ひるがえ)って私は、雨に濡れている昼間のアジサイの姿を心中に浮かべている。「ぺんてる絵の具」を用いればその描写に人は、何色(なんしょく)ほどを使うであろうか。もちろん、人それぞれであろう。あらかじめ絵姿を既製された塗り絵もそうだが、まったく絵心の無い私の場合は、たぶん一色での塗りたくりで済むだろう。絵描きすなわち達人は、十二色にとどまらず二十四色すべて、いやそれにも満足せずに自分流の塗り合わせの色を生み出し、見事に描き上げるであろう。平均的には七変化にちなんで多くの人は、七色で描くであろう。咲き誇るアジサイで言えば私は、描き手や写真の撮り手にもなれずに、たたずんでもっぱら眺めて愛(め)でるだけの木偶(でく)の坊である。
 今年のアジサイは例年を凌いで、ひときわ鮮やかにかつ見事に咲いている。幸いにも昼間の私は、しょっちゅう期間限定のアジサイの咲きっぷりに老心を奪われて、やつれゆく老身を癒している。しかしなからそのとき、全天候型のあふれる歓喜はない。なぜなら気分が、期間を過ぎたのちの剪定作業の面倒臭さに置き換わり、むくむくと頭を擡(もた)げているからである。庭中の草取り、アジサイの剪定、いやいや一事が万事に今の私は、もうできない、面倒臭さい気分にとりつかれている。避けようのない加齢という、年齢のしわざである。二重(ふたが)ねの、「嗚呼、無常」、「嗚呼、無情」の夜明けである。
 パソコンを閉じのちは、再び窓辺に長くたたずみそうである。夜の色から朝の色に変わりはじめの中で眺めるアジサイは、私にどんな感興をもたらすであろうか。いやいやもはや感興など望めず、剪定作業の面倒臭さだけが心中に渦巻きそうである。人間、だれしもにも訪れる、「宴(うたげ)のあと」の寂しさである。とりわけアジサイには、剪定作業の面倒臭さがつきまとっている。もちろんアジサイに罪はなく、面倒臭さはわが固有の罪作りである。七月はアジサイの賞味期限切れでもある。
 加えて梅雨の雨も、例年半ば過ぎまで降り続くことになる。望まぬ誕生日もあり、私には七月は、飛びっきりいやな月である。