六月二十九日(火曜日)、夜明けの梅雨空は、地上に小ぶりの雨を落としている。窓ガラスには雨粒が電燈に照らされて、一面にべったりと無地をなしている。窓は開けないままに眼下の道路へ目をやると、一基の外灯に照らされて道路が濡れている。雨足の跳ね返りは見えない。絹のような小降りの雨なのか、それとも止んだばかりなのか。私は小ぶりの雨と書いたけれど、いずれにしてもまがうことない梅雨空の夜明けである。
きのう(六月二十八日・月曜日)の私は、予約済という行動予定にしたがって、予約時間(午前九時半)前の九時過ぎに、待合室へたどり着いた。この間、わが家からの道程を支えたのは、大船(鎌倉市)行きの江ノ電(本社藤沢市)の循環バスである。バスが無ければ歯医者通いさえままならないのは、わが甲斐性なしの明らかな証しでもある。
予約時間までを待たずに診療室に呼ばれて、私は三台ある診療椅子の一番奥に案内された。もはや、ジタバタしてもしようのない「俎板の鯉」さながらの気分である。本当のところこの日の通院は、定期検診はがきを受けてのものだった。しかしながら私には、それより恐れていたことがあった。恐れは、ほぼ半年前に新たな入れ歯を作ったところの不具合だった。実際の恐れは入れ歯を支えている歯の一本がぐらぐらし、噛むたびに今にも欠け落ちそうになっていた。これが欠ければ入れ歯は役立たずになる。そのうえここのところは、横長い空洞状態になる。そうなると、ここを埋める作り直しの新規の入れ歯は可能であろうか。このことを案じて私は、ぐらぐらの歯に未練心を残して通院を先送りにしてきたのである。
この日の私は、主治医先生にこの未練心を強く訴えることを肝に銘じた。言葉をかえればこの日の私は、薄ノロ間抜けを超越し、大きな矛盾をかかえての通院だった。
診療椅子に横たわると真っ先に私は、勇気凛々かつ悪びれることもなく、歯の損傷過程と未練心を訴えた。もとより親切丁寧な主治医先生からは、わが矛盾する訴えにも腹立たしさなど微塵も見て取れず、なお懇切丁寧に縷々(るる)この日の処置を説明してくださった。もはや私には感謝こそすれ、逆らう勇気はまったくなかった。
私は両瞼を閉じて、ワニ口のように大きく口を開けた。すぐに、局部麻酔が打たれた。職業とは大したものである。先ほどまでの優しい風情(ふぜい)などかなぐり捨てられて、地中深く根を張った立木抜きさながら、大きな音を立てグルグル回しで、強引きわまりない力で懸案の歯を引っこ抜かれたのある。薄く目を開けて見ればおそらく、主治医先生の形相は鬼みたいになっていたであろう。瞼を閉じたままに、私は万事休す。ジタバタ鯉なら、息絶えた。
私は生きて、嘆息した。そして、心中でこう思った。(わが人生は、最期へまた一歩、近づいたな!)。窓口で支払いを済ますと、一週間のちの予約が打診された。なぜか、朝の内と昼過ぎと、一日に二度の予約の打診である。私は怪訝(けげん)な面持ちをひた隠し、渋々納得してそれでも素直に、「日にち、時間ともそれでいいです。よろしくお願いします」と、言った。私は抜かれた箇所の血止めの綿を噛んだままに、医院を後にした。
向かうは痛み止めの処方箋をたずさえて、最寄りの調剤薬局だった。昼間まだき大船の街には、真夏の太陽とまがうほどの暑い陽射しが、地上にそそいでいた。喜んでいいのか、それとも悲しむべきなのか。
きのうは長くてつらい、新たな歯医者通いの始まりだったのである。書き殴り特有の、まったく偽りのないわが起き立ての心境である。私は用無しとなった入れ歯は外している。痛みはない。小降りの雨は、雨、嵐、となっている。