居座り続ける「嗚呼、無情」

 いずれ、『ひぐらしの記』のページに残るわが文章の特徴はこうである。すなわちそれは、書き置きや時間的へだたりのない、起き立てのわが気持ちや状態の吐露にある。確かに、私日記スタイルだけれど、一日の出来事を後で記す日記とは、かなり異なるところがある。言うなればそれは、気持ちや体裁をととのえないままの、起き立ての書き殴りである。もとより、準備万端ではなく起き立ての気持ちの吐露にすぎないから文章とは言えない。いやもとより、わが能力では納得のいく文章は書けない。半面、リアルタイムというか、その時々の偽(いつわ)りのないわが心情や心境を映している。
 不特定多数すなわち大衆に公開するブログに記し、のちにはひぐらしの記のページに残るかぎり、私には準備や体裁をととのえて納得のいく文章を書きたい気持ちが山々にある。一方ではそうしたところで、納得のいく文章が書けるはずもない。また、構えて文章を書けば、日々の継続にありつけることはできない。すなわちわが文章は、起き立ての書き殴りに支えられて、ほぼ日々の継続にありついているにすぎない。再度書けば、書き殴りを恥じたり、悔いたりしては、わが文章の継続はあり得ない。このことでは、書き殴りに「おんぶにだっこ」されている状態にある。言葉を替えて、みずから「書き殴りの妙」と言うには、自分自身に烏滸(おこ)がましさつのるばかりである。
 きょう(六月二十八日・月曜日)から私には、長くてつらい歯医者通いの始まりがある。予約時間は九時半であり、だから私は、九時頃までには待合室への到着を目論んでいる。このため、朝の主婦作業に慌てるため、きょうの文章は端(はな)から休みを決め込んでいた。ところが、起きたての書き殴りに加えて、走り書きをしてしまった。ひいて言えば、起き立ての偽りのない、わが心境の吐露である。善くも悪くとは言えない、いや悪いだけのわが文章の特徴、すなわち恥晒しである。
 明るくふりそそぐ朝日が、梅雨空をはねのけて、煌(きら)めいている。それでも、起き立てのわが気分は、頗(すこぶ)る付きに重たい! 居座り続ける「嗚呼、無情」に打ちのめされている。