六月二十七日(日曜日)、目覚めて長い時間寝床に寝そべり、飽きて仕方なく起き出したて来た。さまざまな雑念や妄想、そして総ぐるみのプレッシャーに負けて、文章が書けない。もとより、書く気になれない。つらい。いや、ほとほと不甲斐ない。私はなんで、こんなにも弱い人間なのか! 生まれてくる価値など、微塵もなかったのであろうか。起き立てに、こんな気狂いの文章を書いてしまい、気分鎮めに躍起である。人様には恥さらしこの上ない、バカげた吐露である。けれど、気分鎮めの一助になれば、恥を忍んで自分には勿怪(もっけ)の幸いである。いやこんなことで、気分が鎮まるはずはない。だとすれば気分鎮めには、散歩めぐりのご常連の人との刹那の会話にすがるより便法はない。言い換えれば自力では叶わず、人様(他力)頼りの気分鎮めである。
梅雨の合間の夜明けが訪れている。私は尻切れトンボのままに文章を閉じて、道路の掃除へ向かう決意を固めている。咲き誇るアジサイへの、ささやかなほどこしでもある。立ち止まり、携帯やスマホを翳(かざ)して、アジサイを撮ってくれる人がいれば、わが気分はたちまち解れるであろう。人様の行為と好意にすがるわが気分鎮めは、ほとほとなさけない。
きょうの私は、「あしからずとかたじけない」、の二つの詫び言葉を重ねる体(てい)たらくに陥っている。なさけなくて、表題のつけようはない。
追記:掃除を終えて戻ってまいりました。ご常連にお会いできたのは、一組のご夫婦だけでした。しかし、ご夫婦は壮年たけなわの中年のころであり、互いに会釈を交わしただけで、ご夫婦は足早に遠くへ去りました。当てにしていたわが一方的癒しの人には会えず、人様からさずかる気分鎮めは空振りでした。やはり気分鎮めは、移ろいやすい人様の行動など当てにせず、自然界の恵みにすがるに越したことはありません。
このまえまでは蔕(へた)にくるまれていた実生の柿の実は、今やいっぱしの大きさになり替わり、道路上に転げていました。ほかにはアケビの青い実も、三つ転げていました。私はそれぞれを指先で拾い上げて、しばし懐郷の念をつのらせていました。気分鎮めはこれらにて、なんなく果たせました。