身のほどの人生

 私には絶えず文章のネタとなる、得意とする分野はなに一つない。加えて無から有を生ずる、文字どおり創作文を創(つく)ったり、紡(つむ)いだりする能力など、願っても夢まぼろしであり、現実にはありつけない。だから余計に日々の私は、この二つに憧憬と羨望をいだいている。言うなれば、無い物ねだり旺盛である。もとより、叶わぬこととわかっちゃいる。確かに身のほどを超えた、やめられないおねだりである。だからと言って、かえすがえす残念とは言えない。なぜなら、わが無能力の明らかな証しである。
 こんな私が文章を書いたり、それを書き続けることは、もとより「雲を掴む」ことより難しいことと言えそうである。それでも私は、お釈迦様が「この世(来世・極楽浄土)に、おいで、おいで!」と呼びかけ、「来れば、あの世(現世・穢土)の四苦八苦から免れますよ!」との説教に、素直に応じるつもりはない。おのずから私は、わが無能力は生来の「身から出た錆」と、我慢を続けている。しかしながらこの我慢はわが心身を痛めて、もはや我慢のしどころへさしかかっている。その挙句、現在のわが心境は、「嗚呼、無常!」の言葉に替えて、「嗚呼、無情!」である。すなわち、ほとほと「情け無い」心境である。
 得意分野があったり、創作文が書ければ、もとよりこんな心境は免れる。つくづく、ほとほと、恨めしいわが無能力である。それゆえわが心境は、常々自虐精神まみれでもある。自(おの)ずから自分自身に、腹立たしさをおぼえる始末である。すなわち私は、「身のほどであるべき」という、戒(いまし)めをこうむっている。
 確かに人生の幸福は、「身のほど」を知り、それに満足する勇気と、言えそうである。だとすると私には、勇気の欠片(かけら)さえもないことになる。まさしくわが人生は、「嗚呼、無情」である。もとより、書き殴りのわが文章には、一滴のしずくほどの自負(じふ)や矜持(きょうじ)もない。単に時間をつぶしにすぎない夜の、明け方が訪れている。梅雨空模様の夜明けにあって、わが世の季節を謳(うた)う窓外のアジサイは、妖艶な彩りをなしている。わが身の切なさを嘲(あざけ)るような、見事な咲きようである。羨ましいとは言えず、ただ見惚れているだけである。そして私は、自然界の恵む眼福にすがり、いっときわが「能無しと無情」を癒している。
 もちろん文章とは言えないけれど、ようやく結文にたどり着いた、清々しさはちょっぴりある。私にとってはこの清々しさこそ、身のほどをわきまえることからもたらされる、わが人生の幸福と言えそうである。このちょっぴりの清々しさが無ければ、パソコンという文明の利器は、私にはまったくの無用の銭失いである。「身のほど」を知れば幸福な人生であり、いやつらい人生でもある。