六月十九日(土曜日)、梅雨でなければ朝日が輝く夜明けの時間帯にある。ところが朝日がまったく見えない、梅雨空の夜明けを迎えている。パソコンを起ち上げる前に私は、窓ガラスに掛かるカーテンを開いて、外気を確かめた。雨が降っているかどうかを一目瞭然に知るには、舗面を眺めることを習わしにしている。すると、雨足の跳ね返りは見えなかったけれど、舗面は生々しく濡れていた。瑞々しくという、表現が浮かんだけれど、なんだかそぐわない。だからと言って生々しい表現も腑に落ちない。確かに、ふさわしいとは思えない。しかし、わが表現の限界のままに、「生々しく」に甘んじざるを得ない。おそらく雨は、小降りに降ったり止んだりをくりかえしているのであろう。
梅雨入り宣言後の鎌倉地方には、こんな梅雨空の夜明けが続いている。ところが、いまだに梅雨入り間際ゆえに、梅雨特有の鬱陶しさは免れている。いやどちらかと言えば、気分の落ち着く夜明けにさずかっている。
きのう(六月十八日・金曜日)の私は、梅雨の合間にあって、道路の乾きぐあいを見て急いで、道路掃除を実行した。このとき意図した掃除は、側壁の溝や側溝脇に小さく生え出している草を、隅から隅までことごとく抜き去ることだった。かなり長い距離をかなりの時間をかけて、やり通した。腰を屈めたり伸ばしたり、この間しょっちゅう動作を休めたりして、すべてをきれいさっぱりと抜き取った。
腰を屈めて首折れて草に向き合っていると、ときには散歩めぐりの人たちの足音が止んで、優しい言葉が飛んで来た。通りすがりの見知らぬ人からの、当てにしていない慰労の言葉である。謝意の言葉を返しながら現金なもので私は、うれしさと同時に心身に安らぎをおぼえていた。人間の生の言葉からさずかった、刹那の草取りの醍醐味である。
山の法面のアジサイは、今を見頃に咲いている。ウグイスは初春からの疲れなどまったく見せずに、訓練しきった声で盛んに鳴き続けている。道路上には、収穫期という晩年にあたる梅の実が落ちている。小鳥や山に棲みつくタイワンリスに食い潰された枇杷の実もまた、半齧りのままに転げている。それらの多くは、マイカー、宅配便、救急車、きわめつきは盛んに巡って来る訪問看護車の車輪に押しつぶされて、「びっしゃげ」たままで汚らしく散らばっている。
この時季特有の自然界のおりなすなかにあって、思いがけなく濃緑に実を固くした小さなアケビが一つだけ、道路上に転がっていた。私は郷愁に駆られて、頭上を仰いだ。見慣れたアケビの蔓が、ほかの蔓と入りまじっていた。自然賛歌を謳(うた)う、道路や周辺の草取りの一コマである。
一方で憎たらしいのはムカデの仕業である。右手の五本の指の中にあって刺された薬指は、ひと際立ちに太身(ふとみ)の大根さながらに膨れて、赤く凝り固まり今なお痛みを残している。ムカデは自然賛歌の範疇に入れずに、私は超強力スプレーのムカデ殺しをあちこちに備えて、その効き目にすがらざるを得ない。ところが、その隙を狙われて刺されたのである。
この時季の自然賛歌は、アジサイ、ウグイスの鳴き声、梅や枇杷の実、さらには飛びっきりはアケビの実である。これらにやがては、実生(みしょう)を包(くる)んだ柿の蔕(へた)が加わってくる。歓迎する自然界現象とは言え、番外にムカデや蛇は、手に負えない厄介ものである。ホタルがふわふわと舞えば、大手を広げて自然界現象の仲間に入れるつもりである。しかし叶わぬ、強欲張(ごうよくば)りである。