人生行路を歩むにあっては、さまざまなしくじりや後悔ごとがあまたある。現在の私はそれらを顧みて、憂鬱気分まみれにある。ばかじゃなかろか、今さら嘆いてどうなることもない、すべては「後悔先に立たず」の「後の祭り」である。確かに、こんなことで嘆くのは、つくづくわが小器の証しである。
こんなバカげたことを心中に浮かべながら私は、パソコンを起ち上げた。現在、パソコン上のデジタル時刻は4:14である。梅雨の夜明けはいまだしである。梅雨にあってわが家には、特に怯えることがある。一つは床や畳の上で、文字どおり百足(むかで)で現れるムカデである。一つは、開閉する雨戸や窓ガラスに張り付くヤモリ(家守)である。あばら家特有のわが家における梅雨の肝潰し、すなわち「お邪魔虫たち」である。決して大袈裟な表現ではなく、梅雨にあっては妻共々に私は、これらには戦々恐々を強いられている。挙句、気分の安らぎを奪われている。
家守(やもり)と書くヤモリはともかく、ムカデ殺しの強力スプレーをあちらこちらに散らばさせて、わが家は臨戦態勢をしいている。だからと言って、気分の休まることはない。なぜなら、百足(ひゃくあし)と書く、ムカデの逃げ足の速さには、そのたびに驚愕するばかりである。また、超強力スプレーを連射、激写しても、「一ころ」とはいかない抵抗力の強さには、これまた驚くばかりである。
ムカデやヤモリの出入りさえなければ梅雨の合間の晴好雨奇(せいこううき)、どちらにも楽しめるところはある。ところが、ムカデとヤモリのせいでわが老夫婦は、梅雨の季節がとことん大嫌いである。このことでは悔いとは言えないけれど、ただただ「みすぼらしいわが人生」である。なぜなら、あばら家に甘んじているのは、わが甲斐性無しの証しである。私は恥を忍んでいるけれど、妻はあばら家をあからさまに嘆いている。
書くまでもないことを書いてしまった。継続とは、ほとほと切ない作業である。4:54、ようやく小ぶりの雨の夜明けが訪れている。今さら歯ぎしりしても仕方のない、わが「しくじりの人生行路」の一コマである。