六月十六日(水曜日)、関東地方は気象庁の梅雨入り宣言(六月十四日・月曜日)後の、二日目の朝を迎えている。夜明けの空は、典型的な梅雨空にある。朝日のまったく見えない大空は、どんよりとしている。すでに小雨が降ったのか、それともこれから降るのか。大空は、気まぐれの雨模様をさらけ出している。
私は、きょうの天気予報を聞き逃している。だから、昼間に向かって「晴れ、雨、または曇り」の予知はできない。確かに、どっちつかずが梅雨空の証しである。梅雨空を眺めながらわが心中には、生誕地・熊本(今やふるさと)における、梅雨の記憶がありありとよみがえっている。そして、その記憶を現在の梅雨と比べている。早い話が子どものころの梅雨には、日を継いで雨の日が続いていた。おのずから日常生活は、うんざり気分にまみれていた。冷蔵庫の無い釜屋(土間の炊事場)の食べ物の残り物は、すぐにねまり(腐り)かけて、家政をつかさどる母をとことん悩ましていた。これらの記憶に比べれば現在の梅雨には雨の日が少なく思えて、おのずから梅雨へのわが思いは雲泥の差にある。もちろんこの先一か月余の梅雨の天気しだいだけれど、この思いが覆(くつがえ)ることはないだろう。すなわち、関東地方に住むようになって以来、私には梅雨の鬱陶しさに身構えることがかなり軽減されている。
再び、単刀直入に言えば子どものころの梅雨に比べて現在は、私には雨の日がはるかに少ないように思えている。日本列島固有の地理的違いによるものか、それともわが記憶違いによるものなのか。
きょうの文章は、わが「梅雨、雑感」で閉めることとなる。夜明けが進んでもきょうの天気の落ち着きどころは、いまだに私にはわからない。ほとほと心許(こころもと)ない、十五年目への出だしである。