気象庁はきのう(六月十四日・月曜日)、わが住む関東地方の梅雨入りを宣言した。季節のめぐりには逆らえずこの先、一か月余にわたり雨の日が多く、我慢を強いられる鬱陶しい日々が続くこととなる。しかしながら嘆くことはなかれ! 日本列島はピンチをチャンスととらえて、ほぼくまなく美しい水田風景に彩られこととなる。もちろん、多忙をきわめて疲労困憊には見舞われるけれど、農家の人たちが躍動する季節の訪れにある。
ところが現在の私は、過去と異なりこの表現には、語弊いや明らかな間違いをおぼえている。なぜなら現在は、田植えの季節にあってもかつてのように、人影を見る光景は薄らいでいる。確かに、日本列島にあってはどこかしこ、田植え機を操るひとりの人を見る光景に様変わっている。わが子どものころの光景は、一家総出に加えて近隣の親戚と催合(もやい)、多くの人手を頼りに横一線に並んで、水田にはいつくばって後ずさりしながら植えていた。幸か不幸か今は、心中に懐かしくよみがえるだけの、夢まぼろしへと成り下がった原風景である。
さて、私には二つの誕生日がある。わが身には来月(七月)半ばに、八十一歳の誕生日がひかえている。人生行路の荒波にあって、確かな長生きのしるしとはいえ、寿(ことほ)ぐ気分にはなれない。きょう(六月十五日・火曜日)は、『ひぐらしの記』・十四歳の誕生日である。息絶え絶えに、ようやくたどりついた誕生日である。実際にもこのところは、走るどころか転んだり、停まったりして、よろよろとこの日にたどり着いている。それゆえにこれまた、誕生日を寿ぐ気分の喪失に見舞われている。
その一方でわが生来の性癖(悪癖)、すなわち三日坊主をかんがみて自尊を試みれば、文字どおりちょっとだけは自惚れてみたくもなっている。しかしながら十四歳までの歳月は、もちろん自分だけで成し得たものではなく、大沢さまはじめご常連の人たちのご好意と支えによるものだった。きょうの私は、このことを書きとどめるために、パソコンを起ち上げたのである。どちらの誕生日にあっても今や独り悦に入り、祝膳を囲む気分は遠のいている。この先、八十二歳と十五歳へたどりつけるかどうかはまったくわからない。どちらも、艱難辛苦の茨道である。
梅雨入り宣言をあざ笑うかのように、朝日がピカピカと照り輝く、夜明けが訪れている。今や息絶え絶えに、こんな実の無い文章を書くのがやっとである。独り善がりに、「あっぱれ!」と、叫べない『ひぐらしの記』・十四歳の誕生日である。